ここから本文です

なぜ慰霊碑の向こうに原爆ドームが見えるのか? 世界的巨匠が託した思い

BuzzFeed Japan 5月26日(木)19時4分配信

2016年5月27日、オバマ大統領が見る光景

5月27日、広島。オバマ大統領はこの光景を生涯忘れないだろう。戦後71年が過ぎ、初めてアメリカの現職大統領が被爆地、広島の地を踏む。広島平和記念公園。献花するであろうアーチ型の慰霊碑の先に、原爆ドームが見える。被爆の悲惨さを、いまに伝える施設だ。【石戸諭 / BuzzFeed Japan】

慰霊碑から原爆ドームが見えるのは、偶然の産物ではない。

そこには一人の建築家の意志が込められている。彼だけが、取り壊しが検討されていた原爆ドームを、シンボリックなものと位置付けた。「悲惨な戦争を想起させるものは復興にそぐわない」「役に立たない」「経済的ではない」。批判を受けながら、死者を慰霊する空間を作り上げた。彼がいなければ、オバマ大統領はこの光景を見ることはなかった。

建築家の名前を丹下健三(1913-2005年)という。丹下は建築界のノーベル賞と称される、プリツカー賞を日本人で初めて受賞した世界的な建築家だ。

なぜ、慰霊碑の先に原爆ドームが見えるのか。すべては設計に込められた、丹下の思想だ。

川を挟んで北限に原爆ドームがある。丹下案は、北の点に原爆ドームをとり、南に向かって一本の線を引く。その線を軸として、慰霊碑や広場を配置し、東西に平和記念資料館など一群の建築物を配置するというものだ。

南北の線と東西の線、この線のなかに原爆の遺構、資料館、広場、祈りを捧げる場所がすべて収まっている。慰霊碑から原爆ドームが一望できるのも、丹下の計算通りだ。

なぜ、丹下はここまで、広島に深く関わるのか。

1930年と1949年。丹下の思いの一端に触れるには、この2つの転機に、時計の針を巻き戻す必要がある。
1930年。丹下は愛媛県今治の実家を離れ、広島高等学校、いまの広島大学に進学する。
自伝「丹下健三 一本の鉛筆から」には、悩む青年、丹下の姿が淡々とした筆致で描かれている。
「理科」に進学したが、文学や芸術に惹かれていく。そんなとき、国立西洋美術館の設計者として知られる巨匠、ル・コルビジェの建築に出会い、魅了された。「理科」の知識とともに、芸術的な要素もある建築なら、情熱を持って取り組めるのではないか。

そう思い立った丹下は、世界的建築家への第一歩を、1930年、広島の地で踏み出した。

その後、東大、東大大学院と進学し、専門的に建築を学ぶ。院生時代には、戦時下の数々のコンペに入賞し、気鋭の若手建築家としての地位を確立していく。

1945年8月、丹下に父が死んだと一報が届く。数日かけて列車の切符を手に入れた丹下は広島県・尾道まで行き、実家のある今治に向かう。途中、列車の中で、新型爆弾が広島に落とされたという話が、どこからともなく伝わってきたという。

まもなく戦争は終わり、東大にも学生が戻ってきた。翌1946年、丹下はついに東大助教授となった。通称「丹下研究室」に学生が集った。主な仕事は、戦争で焼け野原になった日本各地の復興計画策定である。

丹下は広島市行きを自ら志願した。高校時代を過ごした広島に建築家として戻る。そう決めていた。

「いま広島にいけば原爆症にかかり死んでしまう」「(放射能の影響で)草木も生えない」と噂も飛び交っていたが、丹下は気にしなかった。夜な夜な議論を重ねながら、高校生活を送り、建築家という職業を知った、いわば原点の土地だったからだ。

丹下たちは広島県庁近くにトタン屋根の小屋を作り、1ヶ月近く住み込んだ。食料の配給もごくわずか。空腹を抱えながらわずかに残された資料を漁り、新しい広島市の都市計画を作る。

そして、最大の転機となる1949年がやってくる。

1/3ページ

最終更新:5月28日(土)3時26分

BuzzFeed Japan

いかにして巨大イカを見つけたか
人類は水中撮影を始めたときから巨大イカ(ダイオウイカ)を探し求めてきました。しかしその深海の怪物を見つけることは難しく、今まで撮影に成功したことはありませんでした。海洋学者であり発明家でもあるエディス・ウィダーは、ダイオウイカの初の撮影を可能にした知見とチームワークについて語ります。