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セガのハードに込められた熱意が語られた GAME ONトークイベント“セガハードの歴史を語り尽くす”詳細リポート

ファミ通.com 6月3日(金)0時5分配信

文・取材:ライター 馬波レイ、撮影:カメラマン 永山亘

●歴代の業務量/家庭用セガハードを制作した開発者が集結
 5月20日、東京お台場の日本科学未来館にて開催中の博覧会“GAME ON~ゲームってなんでおもしろい?~”にて、トークイベント“セガハードの歴史を語り尽くす”が開催された。“ナイト「GAME ON」”と題されたこのイベントは、GAME ONの展示が終了する20時から、ゲームにまつわるさまざまなゲストを招いて、貴重なお話を聞くというもの。第一夜のスペースインベーダーに続いての第二夜は、熱狂的なファンの多いセガのハードウェアの歴史にスポットがテーマとなった。

 セガのハードウェアというと、SC-3000に始まり、メガドライブ、セガサターン、ドリームキャストと続いたコンシューマーハードを思い浮かべる方が多いかと思うが、それ以前より会社の本流としてあったのはアーケード用のハード、つまりゲーム基板だ。今回のトークイベントでは、それらのゲームハードを実際に1980年代から制作してきたレジェンド開発者たちが登場し、自らの言葉で当時の開発秘話や時代背景を語っていくという、たいへん貴重な内容となった。開催からやや時間が絶ってしまったが、補足情報などを加えたより詳しい内容でリポートを届けする。

セガ・インタラクティブ プロダクト研究開発部 石川雅美氏
1979年に当時のセガエンタープライゼスに入社し、生産技術部でゲーム筐体内の基板開発などに従事。その後研究開発部に転籍して以来、ハードウェア開発に約32年間従事し現在に至る。転籍時期よりコンシューマ機器開発に携り、OEM提供としてツクダオリジナル社の『オセロマルチビジョン』やパイオニア社の『ゲームパック』に始まり、メガドライブ、テラドライブまでを担当。サターン開発チームと入れ替えで業務用ハードウェア開発に異動し、各種システム基板の開発に従事し現在に至る。

梶敏之氏
1981年にセガ・エンタープライゼスに入社。研究開発部で業務用ゲーム機のハードウエア開発を行う。SYSTEMM-16ボード、『ハングオン』の体感ゲーム機基板、セガで初めて3DCGを採用したMODEL1基板『バーチャーレーシング』を手掛ける。『WCCF』や『三国志大戦』で使われたフラットパネル型のカードリーダーを開発。現在は元セガの社長を務めた佐藤秀樹氏が代表を務めるアドバンスクリエートにて、ゲームと関係のないLED照明や非常用電源装置の開発を行う。

WIND-風 代表の矢木博氏
セガ時代は多数のアーケード基板開発や家庭用携帯ゲーム機・ゲームギアの開発に携わる。現在は電子技術に関するコンサルタントなどを行う。

セガゲームス 奥成洋輔氏
今回モデレーターを担当。言わずと知れた『セガ3D復刻プロジェクト』のシリーズプロデューサーで、セガのクラシックゲーム移植のプロデュースを数多く手掛ける。1994年セガ入社。

●セガ初のシステム基板が登場し、家庭用ゲーム市場にも参入
 トークは、モデレーターを務めた奥成氏がセガのアーケード/コンシューマーのハードウェアの歴史を年代ごとに説明し、その開発に携わった3氏が当時のエピソードや秘話を明かすという流れで進められていった。

 奥成氏はまず、今回取り上げるテーマの前史として、セガがどのようにゲームメーカーとなっていったかを説明。1970年代のセガはエレメカ市場で大きなシェアを獲得していたが、『スペースインベーダー』や『パックマン』で火がついたビデオゲーム市場に割って入るべく、当時のセガ・エンタープライゼスはアメリカのグレムリン社と提携・吸収。ビデオゲームのノウハウを学びつつ、『へッドオン』や『トランキライザーガン』、『サムライ』といったタイトルをリリースしていったという。なお、この時代のゲーム基板はタイトルごとに専用で制作されていたため、(開発・流通の)効率はよくなかったという。

 そうした転機の中で登場したのが、セガ史上初の自社開発によるアーケード用システム基板であるシステムIであったと奥成氏は説明。当初は1983年6月にリリースされた『スタージャッカー』用の基板として設計されたそうだが、完成度が高かったためROM交換で異なるタイトルが動作するシステム基板として用いられるようになったのだとか。ちなみにシステムiを設計したのは元セガで社長を務めた佐藤秀樹氏だ。
 システムIの開発に携わった矢木氏からは「これ以前は、ゲームごとにひとつずつハードを開発していたのでボードを統一していませんでした。しかしラインバッファ形式(ブラウン管の走査線1本のみのグラフィックデータを持つ)で描画を行うシステムIの登場によって、汎用性のあるものができあがった」と説明。『フリッキー』、『青春スキャンダル』、『ワンダーボーイ』といった後に家庭用ゲームとしても登場する人気タイトルがこぞってリリースされたのだという。

 システムIとほぼ同時期の1983年7月に発売されたのが、セガ初の家庭用マシンSC-3000/SG-1000である。奥成氏は「この時代はホームコンピューターが流行するだろうとされており、MSX規格など各社からこぞって家庭用コンピューターが登場していた。セガとしても家庭用コンピューターの発売を企画していたところに、任天堂からやってきた駒井徳造氏(任天堂ではゲーム&ウォッチやアーケード事業を担当)が加わったことで、セガ初のコンシューマーゲーム事業がスタートした」と解説。ホームコンピューターであるSC-3000と、ゲーム機である低価格のSG-1000が登場することになったという。


 一大ブームを巻き起こした任天堂のファミリーコンピュータと同日に発売されたSG-1000だが、セガにとって初年度に16万台が売れたという状況は、数千枚でヒットというアーケード基板と比べれば桁違いであったため、セガは家庭用ゲームの強化を決めたと奥成氏は説明。そうして誕生したのが、後継機であるSG-1000IIである。その開発を担当した石川氏は当時を振り返り、「私が研究開発部に転籍したときにはすでにハードの開発は始まっていましたが、おそらくMSXやファミリーコンピュータのメモリ容量を参考に設計がなされたのだと思います。SG-1000ではMSXと同じテキサス・インスツルメンツのTMS9918というグラフィックスチップが使われていたんですが、SG-1000IIではTMS9918相当のグラフィック機能にサウンドも含めてワンチップ化したものを私が設計しました。チップの製造をしたのはヤマハさんですね」と明かした。
 これを補足する形で奥成氏は、「セガとしてはおそらく(アスキーの西和彦氏から)MSXに参入しないかという打診があったと思うのですが、最終的には独自規格を選んだ」と発言。上り調子であったコンピューターエンタテインメント業界内で、いろいろな思惑が渦巻いていたであろうことが想像されるのが興味深い。また、ヤマハとはその後もカスタムチップの分野でセガとの協業が続くきっかけであったそうである。

●体感ゲーム時代の到来とともにハイスペックが求められるように
 システムIで手応えを掴んだセガは、バージョンアップ版であるシステムIIを1985年9月にリリースする。システムIIの制作を手掛けた矢木氏は当時を振り返り「システムIIは将来的なメモリー容量増加への対応、そしてバグ修正ですね。当時の上司だった佐藤さんと相談しながらパフォーマンスの向上やバグ修正を行いました。メモリが日進月歩で拡大していた時代でしたらから、新しいファンクション(機能)を入れようということを心掛けていましたね」と語り、思い出のタイトルとして独自の2ラインバッファを応用して実現した3画面連動表示が行える競馬メダルゲーム『スーパーダービー』を挙げていた。

 一方の家庭用では、性能の低さからシステムIの移植がまともにできなかったSG-1000の後継機として、システムI・IIを移植できるマシンを作ろうという意図をもって生まれたのが、1985年10月に発売されたセガ マークIIIだ。これを手掛けた石川氏は「もともとSG-1000にはスクロール機能がありませんし、1画面に表示できるオブジェクトの数も少く、それを倍増しようと当時言われた記憶があります。ゲームに特化した機械を安く家庭に提供できれば、ゲームセンターにもお客さんが来るだろうと考えていました」と振り返る。この発言からは、アーケードゲームが最先端を走り、コンシューマーがそれを追いかけてゲームの裾野を広げる、という役割分担がなされていたことがわかる。

 その証明ともいうべき存在が、1985年にアーケード市場に投入された『ハングオン』と『スペースハリアー』である。テーブル筐体が主流であったゲームセンターに、“乗って遊ぶ”という体感ゲームの投入は奇抜ですらあったが、確実にゲームいう遊びのパラダイムシフトを起こしたのであった。そんな2タイトルの基板設計をした梶氏は「両タイトルは同時に企画が進んでいました。『スペースハリアー』については、3D的な表現をやりたいというのが一番の目標で、ズーム機能を持ったスプライトをキレイに、たくさん出したいという要望がありました。『ハングオン』に関しては、奥行きのある道路を表現するためのラインスクロールと呼んでいる機能を、汎用的に持たせたいというものでした」と語る。そうした要望をつねに出していたのは、「裕ですね」ニヤリ。もちろん裕とは、体感ゲームや『バーチャファイター』の生みの親である鈴木裕氏のことだ。

 また奥成氏からは、『ハングオン』、『スペースハリアー』では、そのリッチなグラフィックスを実現するために、ボードには当時の最新16ビットCPUであるMC68000を搭載しているが、じつは以前より16ビットCPUを搭載するシステム基板(=のちのシステム16ボードは)研究されており、それを急遽それぞれのタイトル用にパワーアップして用いたのだということが明らかにされた。設計を担当した梶氏からは、「『ハングオン』に用いた新基板は巨大になってしまい当時のテーブル筐体には収まらなかったので、システムボード化するにあたって回路のゲートアレイ化を進めて作っていきました」との証言があり、そのため市場に登場するまでに約2年間の歳月を要してしまったという。

 その後1986年1月に第1弾タイトル『メジャーリーグ』とともにリリースされたシステム16は、性能の高さもあって『ファンタジーゾーン』、『カルテット』(Aバージョン)、『エイリアンシンドローム』、『忍』、『テトリス』(AB両バージョン)、『獣王記』、『ダイナマイトダックス』、『ゴールデンアックス』(Bバージョン)など、約5年ものあいだに多数の名作で使われるロングランボードに。「ここでやっとセガは、最先端のアーケードゲームを出す会社だということが知られるようになった」と奥成氏は結んだ。

 システムIIのアーキテクチャを元に開発されたマークIIIだが、「システム16の登場で見劣りしてしまう」(奥成氏)ために登場した第四の家庭用ゲーム機がマスターシステム。3Dグラス対応などをうたったマスターシステムだが、開発を手掛けた石川氏は「中身は(マークIIIと)変わってないんですよ」と語ると、会場からは大きな笑いが。しかし世界では事情は異なり、マスターシステムはヨーロッパで大ヒットハードとなる。その理由のひとつとして石川氏は「聞いていたのは任天堂さんはヨーロッパには手は出さず、セガが(販売を)がんばったためにセガファンが増えた」とコメント。奥成氏も「アメリカでは日本と同時期にリリースされたファミコンが大ブームとなっていたが、空白地であったヨーロッパでは少し遅れた1990年ごろにマスターシステムがヒットして、海外でのセガの足掛かりとなった」と補足する。

●先鋭化するアーケード基板。家庭用では16ビット機メガドライブが
 1987年に『アウトラン』、1988年に『アフターバーナー』と体感ゲームの大ヒットを連発していたセガは、さらに最先端のアーキテクチャを搭載するようになる。それを証明するコメントとして矢木氏は「いままでの(走査線で描画する)ラインバッファでは限界だったので、メモリーの低価格化もあってフレーム(1枚絵)ごとに描画するフレームバッファ方式に変えたほうがいいだろうと制作したのが、『アウトラン』のボード。これは言わずと知れた裕さんの傑作で、“裕さん仕様”で作りました」とうれしそうにコメント。大ヒットとなった分だけコピー基板の対策にも追われたそうだが、「だったらコピーをされないよう、カスタムチップを増やして、よりスピードをアップさせよう」と、『アウトラン』では定格の10Mhzで動作してたCPUクロックを、『アフターバーナー』では厳選したチップをオーバークロックさせて12.5Mhzで動作させるといった手法で、コピー対策を実施。そうして誕生したのが、後に『サンダーブレード』や『スーパーモナコGP』でも使われるXボードであったという。

 さらに矢木氏は1988年に稼動した『パワードリフト』に使われたYボードについて、「アフターバーナーではギミックで行っていた回転機能をハードで搭載しました。68000CPUを3個搭載したりとバカでかいハードになったが、そういう悪乗りが許された時代だった」と説明。「コピー対策、そして裕さんからの要求に応えるためにこの3人が必死になってがんばりました(笑)」とも語り、鈴木裕氏という稀代のヒットメーカーがいたからこそ、ビデオゲームの急速な進化があったことは間違いないだろう。

 1980年代後期のアーケード基板としてはシステム24も開発された。開発担当の梶氏からは「24という名前はモニターの(24Khz)周波数から。ソフトの供給にフロッピードライブを搭載したのですが、故障が多くすぐに容量も足りなくなり、ちょっと選択を間違えたかな(苦笑)」と振り返っていた。なお、対応タイトルとしては『スクランブルスピリッツ』や『ボナンザブラザーズ』などがあった。

 家庭用ハードでは、ついに1988年にメガドライブが登場。その設計思想を石川氏は「基本的にはAMがリードしているので、システム16の移植ができるようにということ。細かい仕様については佐藤さんから言われませんでしたけど、デュアルポートメモリを使うこと、それとマークIIIとの互換性を保てということは言われました」と説明。そのため、マークIIIで使われていたZ-80CPUが搭載されているのだという。
 メガドライブ最大の特徴としては68000CPUの搭載があるが、家庭用ゲーム機に搭載するには高価格だったものを、なぜ安価で仕入れられるかというと、それについて奥成氏が佐藤元社長から聞いた秘話として「アメリカに買い付けに行って“30万個を買うから安くしてくれ”と直談判をした」との発言が。それを裏付けるように矢木氏からは「買い付けに行ったのは事実です。そのときにいっしょに呼ばれたのが、アップルのスティーブ・ジョブズだった」というのだから、どれだけ大きな商規模であったかがわかるというものだ。

 メガドライブ発売から2年後の1990年に登場したのが携帯ゲーム機のゲームギアだが、これを手掛けたのは初めて家庭用ゲーム機の開発を受け持った矢木氏。「マークIIIのチップに液晶のインターフェイスをくっつけました。当時はリンクスが800グラム、ゲームボーイは260グラムということで、ゲームギアは500グラムという仕様を決めました。ただ、1本2グラムある単3電池が6本必要で、ほかの部品を含めるとなかなか500グラムを切れない。そこで、ケースのABS樹脂や基板の厚さを薄くしたりといった涙ぐましいい努力をして軽量化しました」とコメント。またバッテリーについても「全部で2ワットくらいしか使えず、そのうちの1ワットは液晶のバックライトで消費されるので、開発中は基板を指で触って温度の高いところ(=熱を無駄に使っている場所)を探しだした」と、苦労のほどを懐かしそうに語ってくれた。

●ポリゴン描画への挑戦。MODELシリーズ基板の進化
 1992年8月には、セガで初のポリゴン描画を用いたシステム基板のMODEL1が登場することになる。開発を手掛けた梶氏は「3Dをやろうと言い出したのは裕(笑)。その当時のCGは高価なワークステーションでないとできないもので、リアルタイムでどうやって表現したらいいのかわからなかったまずは“三角形をたくさん描ければいいんだろう”というところからだった」と証言。同時に「3D演算関係は富士通の研究所と協力し、フレームバッファや3D計算といったこれまでのノウハウとあわさって完成した」とも語ったことから、従来までの技術があったからこそ実現できたことがわかる。対応タイトルである『バーチャレーシング』、そして『バーチャファイター』は空前のヒットとなったことは、改めて説明の必要はないだろう。

 後継ボードとして1994年に登場したMODEL2だが、こちらを担当したのは矢木氏。「基本的には梶が作ったフロントエンドはそのまま使って、テクスチャの機能を新たに作りました。当時のセガにはまだポリゴンにテクスチャをはめる技術がなかったので、GEエアロスペース社と共同で開発を進めました。彼らは1台数億はする大型のフライトシミュレーターを開発したのに対して、セガはカスタムチップなどの技術があったので、互いのノウハウを融合したらという発想でした。ただ、最先端のグラフィック技術のことを説明されるもチンプンカンプンで困りましたが、模造紙に質問を書いてコミュニケーションを取るなど、必死になって勉強しました」と当時を振り返る。その苦労の甲斐あって『デイトナUSA』や『バーチャファイター2』といった人気タイトルが華々しく動作する、非常に優れたハードウェアが完成したわけだ。

 開発陣のこうした苦心の甲斐あって、ポリゴン描画はその後のゲームグラフィックの主流となった。その過渡期である1994年に発売された家庭用ゲーム機がセガサターンだ。奥成氏によると、システム32のスタッフが中心となって制作されたというサターンは、じつは開発当初はスプライト描画をメインにしたマシンであった。だが、『バーチャファイター』の大ヒットから急遽ポリゴン描画を可能とするために設計変更を行い、SH-2 CPUを2個搭載するという半ば強引な解決策を用いたのだというわけだ。「システム32譲りのスプライトの強さと64ビット級と呼んだふたつのCPUで実現したポリゴン描画によって、2Dと3Dのあいだの時代を繋いだんですね」とまとめた。

 その後もセガハードにおける映像革新は続き、1996年にはMODEL3が登場。矢木氏とともに開発を担当した梶氏は、「MODEL3はアーケードゲーム機として最高峰の(性能を持つ)マシンです。その中で最新のCPUを採用したり、BGAパッケージを使ったりと、最高峰のものを作ろうという気概で作ったと述懐。しかし「コンシューマーやパソコンでのグラフィック性能が進歩してきたことで、先に進まなくなった」とも語っている。

●ドリームキャストの登場。アーケードと家庭用が同性能に
 ゲームのグラフィック=ポリゴンが当たり前となった1998年12月に登場したのが家庭用では最後のセガハードであるドリームキャストだ。同時期にアーケード用のNAOMI基板が登場しているが、そのアーキテクチャはほぼドリームキャストと同じ。ここにきて、初めて家庭用ゲームハードの性能がアーケードに追いつく転換点であることを奥成氏は説明した。余談だが、NAOMIのネーミングについて設計を担当した矢木氏は「スーパーモデルのナオミ・キャンベルから。これまでのMODELボードを超えるスーパーなモノだから」と、のちにセガ副社長となる鈴木久司氏が命名したことも明らかにしていた。

 セガの純正ハードとして最後となったのは、1999年に登場したSEGA HIKARUだ。矢木氏は「これまでもGEやロッキードマーチン、マイクロソフトといったところと協力をしてきたのですが、技術屋としてはセガオリジナルで開発したいという気持ちがありまして、研究開発部ほぼ総出でHIKARUを設計しました。特徴は名前にもあるように、フォンシェーディングによる光の扱いにあって、スポットライトのような効果がリアルに表現できる」と説明。石川氏も「私の記憶ではカスタムICが7種11個載っている」と技術の集大成であったことを力説。「セガの最後のハードウェアですけど、ここまで馬鹿正直に必死にやったのは、ほかに例のないことだと思います」と、後術屋としての意地とプライドを感じさせるコメントとともに、他社に負けじと新技術で特許を取得したことも明らかにしていた。

 こうして迎えたセガのゲームハードの終焉とともにトークは終了。予定の90分を10分ほど延長した本イベントであったが、それでもかなりの駆け足での解説であったことから、1980~90年代がゲームハードにとっていかに激動の時代であったかがわかり、それを証明する貴重すぎるトーク内容であったことがわかるだろう。
 最後に登壇者からのメッセージとして「約1年半を会社に泊まり続け、家庭や会社を犠牲にして作り上げたメガドライブの設計には思い入れがあります」(石川氏)、「ゲーム機というのはどんな新しい技術を使っても“ダメ”とは言われなかった。日本で、世界で初めてのモノを作ると売れるので、非常に楽しい時代を過ごしてきたと思います。自分が作ったゲームを皆さんが楽しそうに遊んでいるのを見るのが好きでした。今後もそんな環境が続いて、ゲームが発展するといいですね(梶氏)、「アーケードゲームのいちばんいい時代を体験できて、いろいろ好き勝手にやれたのがうれしかったです。“GAME ON”の会場に自分が作った機械が展示されていたので懐かしくて、“いい時間をくれてどうもありがとう”というのが僕の感想です」(矢木氏)と語ると来場者からは万雷の拍手が贈られた。

●登壇者へのミニインタビュー
 トークイベント終了後に、登壇者の皆さんにお話を聞く機会を得られた。ごく短い時間ではあるが、トークでは語りきれなかった細かな部分について聞いているので参考にしていただきたい。

――後半が駆け足になってしまったのでMODEL3のことをお聞きしたいのですが、当時の設計思想をお聞かせいただけますでしょうか。

梶 矢木と私とでいろんな思いが詰まっているプロジェクトですから。

奥成 大ヒットしたMODEL2の後継ということ、『バーチャファイター3』を動かすための基板ということですから、プレッシャーは相当なものだったでしょうね。

矢木 MODEL2はモノクロームテクスチャといって、単色のテクスチャをカラーパレットで分ける手法を用いていたのですが、MODEL3ではそれがフルカラーになった。100万ポリゴン/秒をコンスタントに描画した上で、シャドーといったエフェクトを充実させることを意識しました。Zバッファやアンチエイジングを搭載するなど、いまでは主流に使われている技術を取り入れた最初期のものだったんです。裕さんは「もっと演算能力とポリゴン数がほしい」と言っていましたけどね(笑)。デュラル(が出現するデモ)のモーフィングや環境マッピングなんか、ソフトウェアで無理やりやってましたからね(笑)。

――当時の最新映像表現をリアルタイムでやってくれというオーダーは、かなり無茶がありますよね(笑)。とはいえ、鈴木氏にも技術屋としての側面はあったんですよね。

梶 勉強はしてましたよね。

矢木 グラフィックのファンクションに対しての勉強はしていました。ただ、「本で読んだこの技術をゲームで使うからハードを設計してくれ」と(笑)。本に載っている技術はワークステーション上でやっと動作するようなものなのに、それをリアルタイムで動くようにしてくれと。そのギャップがMODEL3では多々あったんです。

――ギャップというのは具体的には?

矢木 裕さんはシャドウを欲しがったんですよ。ただシャドウを処理するほどにレンダリング能力がどんどん落ちていくわけです。かつ、パフォーマンスは落ちずにシャドウのエッジがスムーズになるように、と(笑)。相当苦労しましたね。

奥成 聞いた話ですけど、MODEL3はセガが一番イケイケの時代だったので、コストは二の次になっていたそうです。

梶 CPUがそれまでのRISCからCISCのPower PCになったのも、その時点でもっともハイエンドなものという選びかたです。ですので、ボードが完成するまではどのCPUにするかを決めていなくて、途中で何度かCPUの変更があったんですよ。

――ご自身にとってもっとも印象に残るハードをお聞かせください。

梶 私はハングオンですね。最初にすべての設計を一番最初に手がけたハードだから思い入れはあります。

矢木 たくさんありますけど、僕はHIKARUかな。MODELシリーズのシステム基板は、セガ社内だけでなく外国企業の力を借りて作ることになってしまった。もちろん協力企業は軍事費を投じたりしているから先に進んでいるのは当然なんだけど、それでもそういう会社に商品として提供できなかったのはセガという会社のハード研究の弱さだったと。それがあったので、なんとしてもオリジナルなモノを作ろうとやり遂げたのがHIKARUですから。

石川 私の場合、技術のベースになっているのはセガ マークIIIやメガドライブで思い入れも深いです。アーケードでは、やはり自分たちだけで手掛けたHIKARUですね。カスタムチップが7種11個だったので、別々のメーカーに発注しているので納期がバラバラでデバッグには苦労しました(笑)。

――ありがとうございました。機会がありましたら、もっとゆっくりお話を伺わせてください!

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最終更新:6月3日(金)15時50分

ファミ通.com

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由
昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。