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「くまさん」と愛された阪神の故・後藤次男氏が掛布2軍監督へ託したもの

THE PAGE 6月3日(金)16時0分配信

 愛称は「くまさん」。
 ハの字の眉に、まん丸で優しい目線。ずんぐりむっくりの体型に温厚な性格。熊本工出身で、熊本のくまにもかかっていたのだろう。まさに「くまさん」「後藤のくまさん」である。その後藤次男さんが亡くなった。阪神で監督を2度務めた。OB最高齢。92歳だった。

「くまさん」は、子がなく、奥さんにも先立たれて甲子園球場のすぐ近くの自宅で一人暮らしをしていた。仲間とのマージャンと銭湯に通うのが趣味で、その日、いつものように銭湯仲間が誘いに来たら「しんどいからやめとくわ」と、断った。心配した仲間が、「どっか悪いんとちゃうの?医者に行ってみたら?」と助言すると、いつもなら「医者なんかいくかい!」が口ぐせだったくまさんが、珍しく「行ってみるわ」と、病院を訪れ、そのまま入院、帰らぬ人となった。よほど体調がすぐれなかったのだろう。

 熊本工から法政大を経て阪神へ。4年連続で3割を打つ好打者で、1950年には8打席連続安打で25塁打(5本塁打、2二塁打、1単打)という記録も作った。投手と遊撃手以外の7つのポジションを守った。もちろん、現役時代のことは知らずあまり伝え聞く機会もなかったが、2度の監督時代の話はよくよく聞かされた。困ったときの「くまさん」で、名将、藤本定義が勇退した1969年には2位になったが、エース村山実の兼任監督案が出るとあっさりバトンタッチ、1978年はBクラスに終わった吉田義男の後を継いだが、球団初の最下位に沈み、翌年はブレイザー監督が就任した。

 その1978年の“後藤阪神”でクリーンナップを張っていたのが、入団5年目だった現在の掛布2軍監督である。田淵幸一氏が故障離脱した夏以降は4番も打った。この年、打率.318、102打点、32本の成績を残したが、最下位だったことが今でも申し訳ないという。

「最下位だったことが申し訳なくてねえ。今でも、その後悔の念が消えない。ほんと怒らない監督だった。私も含めて、誰かに怒っているのも見たことがない。あの年、大洋の野村収さんに頭にデットボールをぶつけられて、打率が.330から.280まで落ちる大スランプに陥ったんだけど、何も言わずに使い続けてくれた。くまさんの教え子の遠井吾郎さんが打撃コーチで、毎日、早出特打ちに黙ってつきあってくれてね。監督や指導者にはいろんなタイプがあるけど、くまさんは本当に私にすれば親父みたいな人で、任せる、見守る、という人だった。結局、スランプを抜けて調子が上がっていき、オールスターの3連発につながるんだけど」

 その年、掛布2軍監督は、後楽園での球宴第3戦で3打席連続本塁打の記録を作った。
「甲子園に帰ってきたら、よくやってくれたな。チームが最下位で暗い話題しかないときに、ほんとよく打ってくれたと、言ってもらったんだ」

 だが、その一方で奥に秘めた勝負師の闘志を感じたともいう。

「本当に温厚で、怒らない人だったけど、内に秘めた闘志がある人だった。いざ勝負になると、先発ピッチャーだってつぎ込む。闘志を感じた」
 くまさんは、サインに座右の銘を求められると「斗魂」と書いた。

 掛布2軍監督の28年ぶりのユニホーム復帰が決まった際、くまさんは「若い選手が出てこないとなあ。頼んだよ。頑張ってな」と、掛布2軍監督に声をかけたという。
 それが、みんなに愛された「くまさん」からの最後の“遺言”となった。
 
 合掌ーー。
   

最終更新:6月3日(金)16時18分

THE PAGE

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