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普賢岳大火砕流から25年 災害報道に教訓 佐賀

佐賀新聞 6月3日(金)12時16分配信

みやき町の元カメラマン使命と安全「永遠の葛藤」

 43人が犠牲になった雲仙・普賢岳(長崎県)の大火砕流から3日で25年になる。記者やカメラマン16人が死亡し、災害報道の在り方に教訓を残した現場には、佐賀県三養基郡みやき町の元カメラマン眞子生次さん(69)もいた。脳裏に焼き付いている光景は、報道の使命と安全のはざまで葛藤した体験の記憶でもある。

 「しとしと雨で5、6合目まで霧の向こうに隠れていてね。その中から、わっと噴き出てきた」。1991年6月3日午後4時8分。眞子さんは大火砕流の瞬間を鮮明に覚えている。

 当時は全国紙の佐賀支局の嘱託カメラマン。最初の火砕流が発生した5月下旬、現地に入った。火口から直線で4キロほど離れた場所などに報道陣はいた。「何度も火砕流は起きていたけれど、遠くで煙がぽーんと上がるだけで、大したことないと思うようになっていた」。油断が生じた時、地響きとともに突如、大火砕流が眼前に現れた。

 200メートル先で警戒していた消防団員がこちらに逃げてくる。眞子さんは「火砕流と一緒に収められる」と思い、踏みとどまって6回、シャッターを切った。消防団員と一緒に逃げようときびすを返した瞬間、恐怖心が湧いた。

 眞子さんはその時の1枚で新聞協会賞を受賞した。この功労で正社員になり、人生を変える1枚になったが、複雑な思いは消えない。別の地点に陣取っていた同僚や同業者を火砕流が直撃し、現地で親しくなった消防団員も犠牲になった。

 マスコミが立ち入り規制を越えて危険地域に入ったため、消防団員らを巻き添えにしたと批判が起きた。眞子さんは消防団員の葬儀で「お前たちが殺した」と責められた。「火砕流がこんなに恐ろしいものだとは誰も理解していなかったし、安全管理もなあなあだった」。メディアには重い課題が突き付けられた。

 阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震…。その後も大きな自然災害が次々と起き、災害報道の重要性は高まっている。時に人知を超える自然の猛威とどう向き合い、伝えるか-。

 「災害報道に答えはなく、一人一人が現場で悩むしかない永遠の課題」。そう強調する眞子さんは、こうも語る。「自然の怖さや伝えたい事実を1枚の写真で表す。プロ意識を持って現場に入ることは、デジカメやスマホの時代になっても変わらない」

最終更新:6月3日(金)17時7分

佐賀新聞