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『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』悲劇への道は、共感の心で敷き詰められている

HONZ 6月3日(金)10時1分配信

SNSに功罪はあれど、「共感をベースにした評判社会」という言葉には何か否定できないものがある。他人の喜びや悲しみといった感情に寄り添うことができ、周囲からどのように思われているか可視化される状態であれば、さぞかし理想的な社会になるはずだ。

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しかし、実態はどうだろうか。人々のつながりは誹謗中傷や負の感情を運ぶ時の方が勢いが強く、よりスキャンダラスな方向へと向かっているような印象も受ける。ならば、世の中は「共感をベースにした評判社会」とは違う方向へ進んでいるのだろうか? 

本書はこのような疑問に対して、明快に回答する。むしろ、これは共感をベースにしているからこその動きであると説くのだ。驚くのはそのメカニズムを、1942年と1950年に起きた2つの冤罪事件(浜松事件と二俣事件)、そして1759年に出版されたアダム・スミスの『道徳感情論』という2種類の要素から解き明かしていることだ。

なぜ、SNSなど存在もしなかった時代の話が、ここまで現代社会を照らすことができるのか?  そしてなぜ、人間の本性である「共感」と「道徳感情」が悲劇を招いてしまうのか。人間が進化の過程で身につけた本性にまで遡り、評判社会の負の側面を描き出す。

2つの冤罪事件において、より本書でページを割かれているのは二俣事件の方である。静岡県磐田郡二俣町で夫婦が匕首で刺殺。長女が絞殺され、次女も母親の死体で圧死、1300円を強奪された。その後18歳の少年が逮捕され、拷問によって自白する。一審、二審とも死刑判決が出たものの、最高裁は「自白の真実性が疑われる」と差し戻し、1957年に東京高裁で無罪が確定した。

しかしこの事件には、伏線があった。その数年前に起き、史上最大の少年犯罪事件とも呼ばれた浜松事件である。この事件において、真犯人が見つかるタイミングに偶然居合わせたのが紅林刑事。彼を大人の事情から表彰し、名刑事と持ち上げたことから二俣事件の冤罪が生まれ、その影響は今なお静岡県において冤罪事件が多いという事実にまで連なっていく。

紅林捜査の特徴は、一連のストーリーを創り上げてから被疑者に自供させるという手の込んだものであった。二俣事件で争点になっていたのが、12時2分を指したまま止まっていた被害者宅の柱時計である。紅林刑事は、少年にアリバイ工作のために時計の針を回したと自供させ、さらに探偵小説にヒントを得たとまで言わせたという。

この冤罪事件のポイントとして著者は、紅林刑事が共感能力の高く、善人であったからこそ引き起こされたものと説明する。部下思いで誰にでも気配りのできる共感能力の高い名刑事が、マスコミにも注目される大事件で一ヶ月以上も犯人を挙げることができず、非難を浴び続けたらどうなるのか。

出来上がってしまった巨像に対して、実像を合わせようとするのは、ある意味必然だったのかもしれない。詰まるところ紅林刑事は、アダム・スミスが言うところの、世間の評判の奴隷となる「弱い人」であったのだ。

一方で、自供してしまった側も共感の罠に陥ってしまった様子が伺える。冤罪に問われた人間の苦しみは、過酷な刑罰ではなく、自分の言うことが信じてもらえなくなる点にあるのだという。これまで築き上げた「評判」をすべて崩され、絶対的な孤独に陥った被疑者は、目の前の取調官の「評判」を得るために、なんでも言ってしまうようになるのだ。

最終的に、この冤罪は最高裁判決によって無罪になる。この時裁判官を務めた5名中4名までが、過去に誤判事件を引き起こしていたというから驚くよりほかはない。被告の体験を持っていたことが、被告への共感を持つことにつながり、裁判官を俯瞰的な眼を持つ「公平な観察者」に進化させた。

これら一連の事件と、アダム・スミスの『道徳感情論』を総括し、著者は意外な真理を投げかける。それは、共感は人を罰するために生まれてきたのか?  という問いかけである。

集団で行動する多くの生物には、互恵的利他主義という特性がある。仲間を救っておけば、今度は自分が飢えた時に救ってもらえるという恩恵を当てにする行動を指す。さらに人間は言葉や文化を持つため、その影響は目に見えない部分にも及んでいく。自分の評判を高めることで恩恵が返ってくるという行動原理も加わるのだ。

良い行動をしたものには報酬を当て、悪い行動をしたものには罰を与える。この人間の本性こそが、喜びや悲しみの原因を理解しようする気持ちを生み出し、因果関係の推論を実行するために共感という能力が備わったと説明されている。つまり共感には、優しさの側面と厳しさの側面が存在するのだ。

著者は、少年犯罪データベースというサイトを主宰する人物。このサイトを少し見ただけで著者のただならぬ雰囲気は伝わってくると思う。スゴイのは、これだけの蒐集活動を行いながら、個々の事件そのものにはそれほど興味がないように感じられるところだ。特定の目的持たずに、機械的にプロファイルし続けているからこそ、思い込みや認知バイアスの罠から逃れられているのかもしれない。

個人としての自分と、集団の中での自分。二つの「自分」が捻転迷宮のように絡み合い、人間の業を形成する。人気商売の代名詞ともいえるタレント、投票によって選ばれる政治家、好感度に売上が大きく左右されるようになった企業活動。様々な不祥事が世間を賑わす昨今であるが、過ちを犯してしまった気持ちも、過ちを犯したものを罰したいと思う気持ちも、同じ道徳感情から発していると自覚することが第一歩だ。

そして二つの「自分」の間には情報格差があるため、因果関係の推論にはどうしても錯誤が入り混じる。因果を見出さないと落ち着かない人間の本性が、単純な因果関係をでっち上げてしまい、しかもそこから逃れることには困難を伴うのだ。

我々は進化の必然として、認識を歪ませるようなメガネをかけた状態こそがデフォルトになってしまったのかもしれない。それゆえ、誰もが過ちを犯しがちである。だがその過ちを罰する過程の中で、さらに過ちを犯してしまっては、永遠に迷宮から抜け出すことは難しい。

内藤 順

最終更新:6月4日(土)13時11分

HONZ