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元ブラジル代表監督、柔道家・篠原が語る=メダリスト育てた武士道精神(中)=3つのメダル手に凱旋帰国

ニッケイ新聞 6月10日(金)1時34分配信

<ブラジル邦字紙「ニッケイ新聞」9日付け>

 【サンパウロ発】恩村ルイスに続けとばかり、12年ぶりの銅メダルの後は、重圧から開放されたように選手らが奮起する。ワルテル・カルモナ(86キロ級、銅)、ドウグラス・ビエイラ(95キロ級、銀)も続いた。1972年ミュンヘン五輪以来、3大会ぶりの快挙。柔道界が待ち望んだメダルを、一気に3つも持ち帰った。

 しかも第2号は篠原道場出身の恩村で、正真正銘、ブラジル生まれとしては初メダル。続く88年のソウル五輪では、こちらも弟子のアウレリオ・ミゲル(現サンパウロ市議)が95キロ級で柔道史上初の金メダリストになった。

 サンパウロ市西部にある篠原道場。ここから巣立った選手たちが世界の大舞台で輝きを放った。一体、どんな指導方針で弟子たちと向き合ってきたのだろうか。

ブラジルに移住した武道家・小川龍造との出会い

 篠原は24年12月、サンパウロ州奥地のアルバレス・マッシャードで生まれた。おぼろげな記憶では、18年以前に両親がブラジル渡航。「お金儲けして3~5年で帰るつもりだった」という。コーヒー栽培に励んだが、父・述一は病気によって死去。残された家族は、40年にサンパウロ市郊外に移り住んだ。

 それまでは剣道に打ち込んでいたが、刀を連想させる競技として、戦争の影響で禁止になった。その内に地元の日本語教師に勧められ、柔道を始めることになる。篠原少年16歳の時だった。

 郊外で野菜を作るかたわら、柔道人生が始まった。7年後には厳しいことで有名な、サンパウロ市リベルダーデ、通称・日本人街(当時、現在は東洋人街)の小川武道館に通うことになる。侍の精神を持つ明治生まれの柔術家、小川龍造による道場だ。

師は嘉納治五郎の兄弟弟子

 石井千秋の著書『ブラジル柔道のパイオニア』によれば、小川は1885(明治18)年、福島県生まれ。講道館柔道の創始者、嘉納治五郎の兄弟弟子に付いて免許皆伝を受けた。

 東京に道場を設立し、皇族に招かれて実演も行ったという経歴の持ち主。ブラジル移住に関しては、《日本での柔術家としての武道活動に志を得ず、昭和9年(1934年)、(中略)レジストロ植民地へ入植した》とある。

 彼の道場は多く著名人を輩出した。ブラジル柔道連盟のアウグスト・コルデイロ初代会長などがその一例。63年パン・アメリカン大会のブラジル代表・山下譲二が、小川武道館について驚きの逸話を教えてくれた。

 山下の兄・嘉男がその道場に通っており、相当に厳格な指導を受けたようだ。(敬称略、つづく、小倉祐貴記者)

最終更新:6月10日(金)22時16分

ニッケイ新聞