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沖縄戦 7歳一人ぼっち 戦災孤児の戦後70年

沖縄タイムス 6月23日(木)12時17分配信

 今から70年前に、沖縄戦がありました。沖縄戦で家族を亡くして、孤児になった人は数千人もいると言われています。激しい地上戦によって、人も家も物も焼けて失われました。孤児たちは戦争中だけでなく、戦争が終わってからもたくさんの苦労をしてきました。その一人、石原絹子さん(77)=那覇市=に体験を聞きました。

■戦場さまよう

 「子どもたちを殺すか、さもなくば、ここから出て行け!」。沖縄戦の時に国民学校(今の小学校)1年生だった私は、母と兄、2人の妹と一緒に隠れていた防空壕に、数人の日本兵が来て母に銃を突きつけ、脅し、食料を奪った光景を覚えています。小学3年の兄は、やけどを負って足が不自由な母に「妹たちを殺させないで」と言って肩を貸し、7歳だった私は1歳の妹をおぶって3歳の妹の手を引き、壕を出ました。
 海を埋め尽くしたアメリカの軍艦からの砲撃と戦闘機の爆撃が続き、火炎放射器も火を噴いて、空も地面も真っ赤に染まりました。逃げる住民は次々と倒れ、粉々にちぎれた人の肉片が顔に飛んできました。あてもなく歩く途中で、日本兵に「摩文仁方面は安全だから」と教わり、必死にたどり着きましたが、そこは地獄のようでした。
 「お母さん、私たち死ぬしかないの?」と聞くと、母は土や砂で真っ黒に汚れた顔で、何も言わずに頭をなでてくれました。昼も夜も爆弾が降り注ぎ、辺りは煙で見えなくなりました。気づくと、母と兄の姿がありません。たくさんの死体を踏み越えて探すと、2人は崩れた岩の下敷きになって亡くなっていました。
 叫び声を上げて後ずさりし、我に返ると、今度はおぶっていた1歳の妹が冷たくなっていました。「起きてちょうだい!」と何度も揺さぶりましたが、動きません。妹のほおは紫色に変わり、目や鼻、口からウジがわき出して、払いのけても増えるばかりでした。
 やがて3歳の妹の胸に、砲弾の大きな破片が突き刺さりました。苦しそうな息で「お姉ちゃん、お水をちょうだい」と何度もせがまれましたが、戦場のまっただ中には、唇を潤す一滴の水さえありません。涙を浮かべながら、私の腕の中で息絶えました。
 父も防衛隊として戦場へかり出され、亡くなりました。一人ぼっちになった私は、身も心も尽き果てて死体にうずもれ、遠のく意識の中で「今度は私が死ぬ番。これでみんなに会える」と思いました。どれほどの時間がたったのでしょう。目をさました時には、学校で「鬼畜」と教わったアメリカ兵に抱かれていました。助かったのです。

■私を迎えに来て

 命は助かりましたが、戦場で経験した怖ろしい光景や、煙の臭いが、毎日のように夢に現れてうなされました。「助けて!」と悲鳴を上げて飛び起きたこともよくありました。戦争が終わってから、長い間笑うことができませんでした。家族の死を受け入れることができず、本当はみんなどこかで生きているのではないかと思うようになりました。降伏した住民が集められた収容所で、来る日も来る日も小高い丘に登って、両親やきょうだいの名前を呼んでは「どこにいるの?私を迎えに来て」と叫び続けました。
 収容所には、学校の校舎も木陰もなく、日照りの下に座らされて授業を受けました。ノートはなく、先生は子どもたちをごみ捨て場に連れて行って、アメリカ軍が活字を打ち損ねた紙をみんなで拾って裏側を使いました。鉛筆は1本を三つに分けました。食料もありません。草も燃えてなくなり、ネズミやバッタをつかまえて食べました。
 収容所には、別に生き延びた祖母が、私が生きていると人づてに聞いて、迎えに来てくれました。私は会うとすぐに「お父さんもお母さんも、兄さんも妹たちも、なぜ死ななないといけなかったの?」と泣きじゃくりました。祖母は私を抱きしめ、「みんな戦争が悪いんだ。どんなにつらくても、命を落とした家族のために強く生き抜こう」と説いてくれました。
 収容所から祖母の家に移ってからも、さびしくてよく泣いていました。ある夕方、母が生前に使っていたツバキ油の香りが、ほのかに漂ってきたのです。祖母も気づきました。戦争が終わったばかりで、ツバキ油なんてない時代だけに、不思議でした。こんなこともありました。おばが昼寝をしている時に、夢の中で亡き母が枕元に立っていました。驚いて目を覚まし、外に出ると、私が雨に打たれてふるえながら泣いていたので、家の中に連れ戻してくれたそうです。

■遺骨さがし

 家族の遺骨は、真夏に祖母とスコップ、わら袋を持って、今は「魂魄之塔(こんぱくのとう)」が建つ糸満市米須で朝から探しました。なかなか見つからず焦りました。日が暮れると、女性はアメリカ兵に乱暴され、殺される危険があるからです。アメリカ軍にとって沖縄の人は「戦利品」です。恐怖心でいっぱいでした。祖母はとうとう泣き出し、「魂があるならどこにいるか教えて」とスコップを土に突き差しました。
 私がその下を掘ってみると、戦場で母が着ていた服が出てきました。紺地に白い花模様の地味な衣と、もんぺです。金歯もありました。兄が持っていた、肩がけのかばんも出てきました。読書好きの兄らしく、中には本が1冊入っていました。こうした遺留品と一緒に、母と兄の骨が見つかりました。妹2人の骨は、摩文仁で見つけました。一帯は戦争で亡くなった人々の骨がいっぱいで、雪が降ったような風景でした。
 家族の遺骨を持ち帰って並べました。母は元気だったころ、「戦争が終わったらおうちの回りにいっぱい花を植えて、明るい家庭を作ろうね」と励ましてくれました。兄は「一生懸命勉強して、大きくなったらお医者さんになって、困っている人を助けてあげたい」と言っていました。3歳だった妹は「大きくなったらお菓子屋さんになる」と笑顔で話していました。
 夢と希望を断たれ、変わり果てた家族の姿を前にして、「骨があっても(死を)受け入れられない」「受け入れることは私に死ねってことよ」と泣き叫びました。母の頭がい骨を抱くと、いっそう涙があふれてきました。落ちる涙を、母の骨が優しく吸い取ってくれたように感じました。亡くなっても、私を心配してくれているんだと思いました。祖母や先生の言うことをちゃんと聞いて、勉強しようと心に決めました。
 祖母の家を出た後も、苦労は続きました。親戚の家を何軒も転々とさせられて生活しなくてはいけなかったのです。両親が生きていた時は私を一人前に扱ってくれた親戚も、人も物もお金もない、戦後の大変な時に面倒を見るのは負担が大きかったのです。扱いが戦争の前と違うんです。家族を失って傷ついている私は、そこにとても敏感になっていき
ました。

■私は「絹子」

 私と家族のつながりを記した公の台帳「戸籍」も、沖縄戦で焼けてなくなりました。私の正しい名前は「絹子」です。普段の生活や学校でもそう記してきました。しかし、戦争が終わってから作られた戸籍には、長らく「キヌ」と書かれていました。大人になって結婚して長く移り住んでいた熊本県で、キリスト教の牧師になる時に、沖縄に住むおじやおば、友達から届いた手紙を証拠として家庭裁判所に提出して、戸籍の名前を「絹子」に戻しました。
 生まれた月日も、戦争と戦後の混乱の中で、記憶を失ってしまいました。生き残った祖母が「だいたいこのぐらいだろう」と考えて生年月日を決めましたが、おばは正確に覚えてくれていました。私は戸籍の名前を改める時に、生年月日も直したいと望みましたが、証明する書類が残っていないため、あきらめざるを得ませんでした。「命があるだけで十分」と自分に言い聞かせました。
 沖縄戦で亡くなった妹2人の名前は「つぎこ」「ふじこ」でしたが、戦後に作られた戸籍には載っていませんでした。妹たちが生きた証を何としても残したい、そのために戸籍に載せたい、と強く思うようになりました。
 しかし、実家があった玉城村役場(今の南城市役所)に連絡して、沖縄戦を含む第2次世界大戦で亡くなったり、けがをした軍人や軍属、遺族を対象にした法律「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を担当する職員に尋ねると「戸籍に載せるには、家庭裁判所で裁判を受ける必要があります。費用は1人当たり約100万円かかります」と言われ、ショックを受けました。当時は払える経済的な余裕がありませんでした。戦争でつらい思いをして亡くなったのに、生きた証さえ残せないのはあまりにもかわいそうで、耐えられませんでした。
 私は、生き残った人間としてあきらめるわけにはいかないと決意しました。沖縄県が糸満市摩文仁に「平和の礎」を建てる時に2人の名前を申し出て、沖縄戦から50年がたつ1995年に、礎に刻んでもらいました。ようやく妹たちの生きた証を残せました。

■平和のとりで

 今、日本政府は名護市辺野古の海を埋め立てて、新しいアメリカ軍基地を造ろうとしています。戦争はしないと誓った憲法9条も骨抜きにしようとしています。私は、70年前の悲惨な体験が風化して、また戦争の準備が進んでいると危ぶんでいます。だます政府と、だまされる国民がそろった時に起こるのが戦争です。どんなに残酷か…。もめごとは鉄砲や爆弾ではなく、英知で話し合って解決してほしいです。
 テレビのニュースは今も日々、世界の各地で起きる戦争を伝えています。妹たちが亡くなった糸満市摩文仁に立つ沖縄県平和祈念資料館には「戦争をおこすのはたしかに人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも 私たち人間ではないでしょうか」と記されています。一人ひとりが心の中に「平和のとりで」を築きましょう。普段から、いじめられている人に気づいたら、自分と同じくらい大切にして下さい。

最終更新:6月23日(木)12時22分

沖縄タイムス