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『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』生誕25周年記念特別企画 1990年代のセガPRの立役者である竹崎忠氏が明かすソニックチームとの絆

ファミ通.com 6月24日(金)12時2分配信

文・取材:ライター 馬波レイ、撮影:カメラマン 和田貴光

●元セガの名物広報“竹ちゃん”が1990年代のセガを振り返る
 『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』25周年記念を祝う特別企画として、ソニックチームを支えたレジェンドクリエイターの対談をお届けしたが、その外伝とも言える記事をさらにお届けする。今回のインタビューに登場いただいたのは、竹崎忠氏。長らくセガファンでいる人ならばその名前はおなじみだろうが、1993年からセガのパブリシティ(PR)担当として、雑誌やラジオなどの媒体に積極的に登場して“竹ちゃん”の愛称でセガのタイトルをアピールしてきた人物だ。

 メガドライブ、セガサターン、そしてドリームキャストと連なるセガの家庭用ハード事業をPR担当者として支えてきた人物が、セガという会社を広く世間にPRするために何を考え、何を行ってきたのか。ソニックチームと竹崎氏が、どのような“共同戦線”を張っていたのかなど、いまだから話せるエピソードも交えて、たっぷりと語っていただいた。家庭用ゲームハードの争いがもっとも熱かった、1990年代の市況を振り返るためのガイドともなっているので、ソニックファンでない方々にも一読いただければ幸いだ。

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竹崎 忠氏

 1964年兵庫県生まれ。小学生時代に学級新聞の制作を手がけた経験から、文章や漫画を描くこと、同人誌やミニコミ誌の企画・編集のおもしろさに目覚める。大学卒業後はCSKに就職し、6年間をシステムエンジニアとして勤務。1993年に当時子会社であったセガに移ってからは家庭用タイトルのPR・マーケティングなどを担当。敏腕広報としての活躍以外にも、“セガの竹ちゃん”としてユーザーの兄貴分的な存在としてメディアにも積極的に登場した。現在はセガグループのトムス・エンタテインメント常務取締役 事業本部長として活躍。国内で発売されたメガドライブのソフトをすべて所有しているという生粋のセガマニアでもある。より詳細な経歴は竹崎氏の個人サイトで見られる。

●セガに入社してPRとなるまでには大きな回り道が
――本日は竹崎さんが担当されたセガのPR業務について、ご自身の足跡とあわせて語っていただけたらと思います。まずは、ゲーム遍歴をお聞かせいただけますか?

竹崎 1960年代生まれなのでテレビゲーム黎明期を体験しています。小学生のときは任天堂の『カラーテレビゲーム6』を店頭で眺めていたり、中学生のときは風紀委員をやっていて大ブームだったインベーダーハウス(当時のゲームセンター)への立ち入り禁止をクラスの前で言わされていたり(笑)。ちゃんとゲームと対峙するようになったのは大学生のときで、休講時間に大学前のゲームセンターに通うようになってからですね。ご多分に漏れず、『ゼビウス』や『ドルアーガの塔』に衝撃を受け、ナムコのテーブルゲームにハマり、『ハングオン』や『スペースハリアー』の体感筐体に度肝を抜かれてセガファンになったり。中でもセガが好きだったのは、“限定された空間で提供する遊びの幅が広い”と思ったから。テーブル筐体を4つ並べるよりも『アフターバーナーII』1台を置いたほうが、単位面積あたりの楽しさが大きいなって思ったんですね。

――「『スペースハリアー』をノーコンティニュークリアーできるまで特訓した! でも留年した!」というようなハマりかたではなかったんですね。ちょっと理屈が先行したというか。

竹崎 ええ。早くから家庭用ゲーム機を買って遊んでいたのではなく、むしろみんなが『ドラゴンクエストII』にハマって大学に出てこない時期に、朝から研究室にいるような学生でした。大学では機械工学を専攻していたのですが、就職するにあたっては人を楽しませる仕事に就きたいなと。勉強は当たり前にやるべきものとしてやっていましたけど、たとえばマンガを描いたほうが人はワーッと喜んでくれる。人を喜ばせる側に回ることが、トータルの人生で得られるものが大きいんじゃないかと思ったんですね。そこで就職担当の教授に「ゲームメーカーかおもちゃ屋、それがダメなら記事を書く仕事に就きたいです」といったら、愕然とされまして。

――機械工学科の学生がそんなことを言い出したら戸惑いますよね(笑)。

竹崎 「君は造船か鉄鋼業界に就職すべきだ」と言われました。大学の研究課題にちゃんと取り組んでいたので教授には機械工学科らしい人生を歩むものだと思われていたようですけど、それは学生として当たり前にやるべきことであって、“やるべきこと”と“やりたいこと”は別ですからね。そこでセガに行きたいという希望を出したところ、教授には猛反対されて話が進まなくなり、一計を案じて当時のセガの親会社であるCSKに就職するわけです。親会社に行けば、いつか子会社に移るチャンスもあるのではないかと(笑)。このときすぐにセガに就職できなかったことで余計にセガへの思いと研究心が募って、メガドライブのゲームをどんどん買い集めていくわけです。ただ、同時にファミコンやPCエンジンもプレイしていたんですね。他機種も遊んでいたからメガドライブのゲームのおもしろさがどれほどのものかもわかっていた。その結果、メガドライブのゲームは、ゲームそのもののおもしろさに対して、媒体における露出量が少ないし、実力以上に世間で評判になってないなと感じるようになったんです。もちろん『Beep』や『BEEP!メガドライブ』(ともにソフトバンクが刊行していたゲーム雑誌。ゲーム総合誌だった『Beep』が次第にセガ色を増していって、ついにはセガハード専門誌の『BEEP! メガドライブ』となった)をはじめとする専門誌はメガドライブ一色で大好きでしたけど(笑)。

――じつにセガファンあるあるです。

竹崎 ですから、「メガドライブはほかのゲーム機に比べてそこまで劣っているのだろうか、もうちょっと世の中に認められてもいいのでは」という気持ちがずっとありましたね。その後、世間ではスーパーファミコンがもてはやされるようになるんですけど、メガドライブはマイナー機種扱い。ゲーム雑誌を全部読んで分析してたどり着いたのは、総合ゲーム雑誌におけるセガのゲームの取扱量が少ないこと。そして誌面で、「セガのハードがすごくいい!」と熱く語っている中心人物はセガではなく、ゲームアーツなどの第三者ということだったんです。

――確かにサードパーティーのほうが雄弁で、肝心のセガからの発信力は低かったかもしれません。

竹崎 ということは、「これはもしかしてセガに問題があるのではないか」と思って、プライベートで参加した遊星Sega World(1992年に両国国技館で開催されたセガ独自の展示イベント)のときに、片っ端からサードパーティーの皆さんに聞いてみたところ、口を揃えて「セガ向けにソフトを作っても、まともにPRをしてくれない。プラットフォーマーとして努めを果たしてほしい」とおっしゃるんですね。僕は個人的にメガドライブの情報をまとめたミニコミ誌を作って配っていたりしたんですけど、その活動をいくらがんばってもせいぜい1000人程度にしか届けられない。だけど、セガに入って同じことをやれば万単位の人に知ってもらえるのではないだろうか、と思ってしまいましてね……。若気の至りもあって(笑)。でも、雑誌に掲載されない原因さえ解決すれば、その先があるはずだという信念はありました。

――それでセガへの転籍の決意が固まったわけですね。

竹崎 そうです。ただ、決意はしたものの、実際に籍を移すまでは難航しましたね。紆余曲折を経て当時のセガの家庭用ゲーム機の取締役から「うちに来ないか」と声をかけていただいて、渡りに船とばかりにグループ内異動のチャンスだと思ったのですが、そうは簡単にいきませんでした。最終的に退職希望まで切り出して、なんとか妥協してもらい、2年間限定の出向という形でセガに行かせてもらえることになったんです。1993年の3月末日まで大阪で仕事をしていた若造が、4月1日の始発の新幹線に乗ってセガに出社ですよ。始発でも始業時間に間に合わなくて30分遅刻したんですけどね(笑)。ただ、CSKでプログラマーを経験したことで作る側の気持ちがわかったのと、もともとロジカル(理論的)に考えて行動するほうなんですけど、それに磨きをかけることができた。インプットとアウトプットをどう最短距離で結ぶかがプログラマーの腕じゃないですか。どうすれば最適な工程管理ができるかという考えかたは、いまでも役に立っています。それにCSKや出向先の大手メーカーで会社というものの成り立ちを学べたのも大きかった。

●困難だらけのPR部門立ち上げ
――ドタバタだったのですね(笑)。そうして晴れてセガのイチ員になることができたと。そこでの配属部署は?

竹崎 マーケティング部でしたね。PR担当という名刺を作ってもらってひとりでスタートをしました。マーケティング部としてはメガドライブやメガCD、ゲームギアの機種ごとに担当者がいたし、テレビや雑誌に広告を打つといったように機能はしていました。流通に対する告知であったり、ユーザーキャンペーンも行われていましたね。

――その中で具体的に竹崎さんは、どのような行動を起こしたのでしょう。

竹崎 PR担当として「なぜセガのタイトルは媒体露出が少ないのか」を解き明かすための行動を起こしました。まずは社内の宣伝に関わっている人たちから聞き取りをするわけですね。その結果、雑誌社とやり取りする窓口や情報の出しかたがバラバラだというのがわかったんです。一応は宣伝部がPRの窓口も果たしていたのですが、その露出量に不満を持った開発チームが直接知り合いのゲーム雑誌の編集者とやり取りをしていて、宣伝部の知らないところで新作情報が一誌独占情報のように掲載されてしまっている。ほかの開発チームも「だったら俺も」となって、まったく統率が取れていなかった。

――メーカーと媒体との窓口が勝手に増築されていたと。もう一方の社外のほうは?

竹崎 雑誌社のゲーム雑誌編集部をいろいろと回ったのですが、これがもう大変なお叱りを受けまして。「担当が変わったから許してもらえると思うな」と言われて、それまでにどれだけセガが不義理をしていたのかが身にしみました。ですので、PR窓口の機能をどうにか改善しなといけないと思い、雑誌社の皆さんには「これからはしっかりと対応します。何が必要なのかを理解して、横一線で情報のコントロールをしますので、信じてほしい」と約束をしました。開発側には「キチンといい形で露出するようにするから頭越しに素材を出さないでください」と統制をして。それでも一部の開発チームから勝手に素材が出て行った事例もありまして、それを全力で追っかけていって押さえつけるみたいなこともありました(笑)。

――1993年というと、メガドライブ末期のころですね。

竹崎 そうですね。当時は末期だと思っていなかったんですが(笑)。年末商戦で『ファンタシースター 千年紀の終りに』や『バーチャレーシング』、『夢見館の物語』、『ソニック・ザ・ヘッジホッグCD』が発売になるタイミング。これはいまだから言える話ですけど、ファミ通さんに行って「セガのゲームをどう評価しているか」と聞いたところ、「ゲームはおもしろいと思うけれど、ハードが売れていないから誌面が取れません」と正直に言ってくれたんですね。メジャーなものを優先するというのは、ビジネス的にはまっとうな話ですが、こちらとしてはそれでもファミ通にページを取りたい。どうしたら載せられるかという相談をして生まれたのが、“セガ 炎の7週間”という企画記事だったんです。

――7週連続で新作ソフトのスクープ情報が掲載された記事ですね。

竹崎 もう時効だから話しますけど、あれの内幕としては、「他ゲーム機に比べてバリューがなくてページが取れないのならば、セガがファミ通の白いページを買います。本当にセガのゲームがいいと思っていただけるなら、ほかの記事と同様に御社の思うがままにそのページで記事にしてください」、ということだったんです。

――雑誌ビジネスでは企業がお金を出して記事を作ってもらう“タイアップ記事”と呼ばれる仕組みがありますが、それともちょっと違った形ですね。しかし、その記事を見たときのセガハード専門誌はかなり怒ったでしょうね。

竹崎 「来週から“セガ 炎の7週間”がはじまる」って予告が掲載されるや、メガドライブ専門誌各誌の編集長からは大変なお叱りを受けました。メディアとメーカーの信頼関係を裏切られたように感じられたのに加えて、決して多くはない専門誌への広告投下を差し置いて、ファミ通とは7週連続にも渡る完全タイアップ記事(記事内容にまで広告主が口を出し、広告費プラス記事制作費を支払う)を行うつもりだと思われたんでしょう。実際はちょっと違うのですが、金額も含めてその内幕をほかの媒体の人には言えないし、すごく悩みましたね。あまりに印象深い出来事すぎて、そのときの稟議書はいまでも手元にとってあります(笑)。

――たしかに専門誌側からすると裏切り行為にも見えるでしょうが、それくらい刺激的な変革が必要だと考えたということですか。

竹崎 そうですね。僕がやりたかったのはメガドライブをたくさんの人に知ってもらって、買ってもらう機会を増やすことです。専門誌はすでにハードを持っている人が買うものですから、ハードを持っていない人が読む総合誌でPRしていく必要がある。ハードを売らないと、専門誌を買う人が増えないという信念にもとづいてやっていました。

――セガハード専門誌との関係が悪化したりは?

竹崎 そこはひとつひとつ丁寧に説明していきました。ファミ通さんで新しいお客さんを掴んで、もっと知りたいと思ったら専門誌へ……という流れを作りましょう、と。媒体ごとに情報の質と量をきちんとこちらでコントロールするという約束をして。それがセガで働き始めて2ヵ月くらいの出来事で、そこからやっとPRとしての機能がまともに動き出しました。以降は全方位外交で、それぞれの媒体でどういった役割を担ってもらい、お客さんをどう循環させるか、その結果どうやってハードの販促に繋げていくかということをPRの立場でずっと考えていました。

――PRの地盤を築いたのですね。

竹崎 もうひとつチャレンジしたのは、開発者を実名で出すようにしたことですね。それまでは“フェニックスりえ”であったのを『ファンタシースター 千年紀の終わりに』では、小玉理恵子さんとして登場させたいと。でも最初社内では「名前を出したら引き抜きにあう」と猛反対されたんです。ただファンの立場からしてみたら、『ソニック』を作った中裕司さんが「つぎにこのタイトルを開発しました」と聞いたら、それがまったくの新作タイトルでも興味を持ちますよね。映画や音楽の業界でスタッフは実名で出ているのに、なぜゲームではそうでないのかがずっと引っかかっていて。最終的には経営の許可を取り付けて実名を出せるようになったのですが、雑誌が出た直後に「引き抜きの電話がかかってきたぞ、来月から名前をペンネームに戻せ!」と無茶を言われたり。セガサターンの後半からは、どうやってゲームのイメージをユーザーに伝えるかを考えて、ゲーム内グラフィックだけではなくイメージビジュアルを採用したりもしました。小玉さんがプロデュースした『DEEP FEAR』でも、パッケージビジュアルからタイトル名までいっしょにいろいろと相談しながら作り上げていきました。

●思い出深いソニックチームタイトルのPR戦略
――『ソニック』シリーズが25周年を迎えるということで、ソニックチームとのやり取りをお聞かせください。まずは、ソニックチームの皆さんとの出会いは?

竹崎 ちょうど僕が入社したときは中さんと飯塚(隆)さん、安原(弘和)さんがアメリカにいたときで、おもに大島(直人)さんとやり取りをしていたんです。『ソニック・ザ・ヘッジホッグCD』のオープニングアニメのセル画を見せてもらって「これをファミ通に売り込みに行きましょう」といっしょにプレゼンしに行ったり。その後、1994年にサンフランシスコのアルカトラズ島で開催されたMTV主催の『ソニック』ゲーム大会で渡米したときに、初めて中さんと飯塚さんに会ったんです。憧れの人物というのもありましたけど、スポーツカーに乗っていた中さんはカッコよかったですね。日本に戻ってくるまではあまり接点がなかったんですけど、帰国後に『ナイツ』を開発されていた時期は効果的なPRの手法を探りたいこともあって、いろんな話をしましたね。

――竹崎さんから見た中さんの人物像というのは?

竹崎 天才プログラマーであり、チャレンジを止めない人。ただ優れたクリエイターって大概そうなんですけど、人としてはよくも悪くも常識にとらわれないところはあります(笑)。僕が見てきたクリエイターとしての中さんは、メガドライブのころはすごいプログラムで人をビックリさせることに重心があったんですけど、ドリームキャストのころには開発したゲームをどういう風に見せるかというプロデューサー的な視点が強くなっていったように思います。打ち合わせの席でも、「どういう切り口で見せればゲームがおもしろそうに見えるか」という話をよくしました。あとは『ファンタシースターオンライン』の元となったゲームの開発中に、これにファンタシースターの名前を冠するかどうかで議論をしましたね。

――えっ!? そこは詳しくお聞きしたいです。

竹崎 開発中からSFのオンラインRPGだということは決まっていたのですが、世界観を『ファンタシースター』にするかしないかという議論があったんですよ。名前をつければシリーズのファンにしか遊んでもらえなくなるのではないか、逆にまったく新規のタイトル名だとフックが弱いんじゃないかと。どういうプロセスを経て最終決定がなされたのかは明確に覚えていませんが、いまとなってはまだシリーズが続いてたくさんの方にプレイしていただいているので、名前を受け継いでよかったなと。

――そんな舞台裏があったとは知りませんでした。話を戻しますが、『ソニック』シリーズをPRしたことでの思い出はなんでしょう。

竹崎 いちばん思い出深いのは、ドリームキャストの立ち上げのときですね。そのときのソニックチームは、3Dになった『ソニックアドベンチャー』、若手スタッフが手がけた『チューチューロケット』、アーケードゲームの『サンバ DE アミーゴ』、通信を使った『ファンタシースターオンライン』と、すべてが新しいチャレンジをするということで、“ENJOY 4 SONIC TEAM”というキャンペーンを行ったんですね。ファミ通さんとドリームキャストマガジン(ソフトバンク刊のドリームキャスト専門誌で、当時は週刊だった。先祖は『Beep』)さんとで、毎週新情報を公開していく企画を立てました。『ソニックアドベンチャー』で言えば、従来のようにゲーム画面を中心に記事を組むのではなく、ムービーシーンを大きく使ってスペクタル感を出してもらえるように意識しました。そのへんは中さんともずいぶん相談したんですけど、(誌面での)見せかたを変えていかないと、ゲームが変わったということが伝わらないからです。

――ちょっと時代を遡りますが、セガサターンの『ナイツ』でのエピソードがあったらお聞かせください。

竹崎 『ナイツ』ってフル3Dのゲームなのに、プレイ中の画面は横向きのナイツが画面の中央にポツンといるだけで地味に見えちゃうんです。遊んだときの独特の浮遊感や楽しさをどうにかして誌面で伝えなきゃと中さんと相談した結果、開発用のワークステーション上で動作しているゲームを一時停止して、カメラの角度を自由に変えられるツールを作ってもらったんですね。開発スタッフがある程度帰宅した深夜に奥成(奥成洋輔氏)とふたりで開発現場に入れてもらってスクリーンショットを撮影していたんですけど、雑誌に掲載されたときに1枚の画像からゲームがどう伝わるかということを考えました。結果的にナイツの顔がアップになっていたり、空を飛ぶ浮遊感が伝わる立体的な画像が撮影できたんですけど、今度は「これ、ゲーム画面と違うじゃん!」と言われるんじゃないかという話になって(笑)。そこで出てきたのが、ステージクリアー後のリプレイ画面ではさまざまな角度からナイツを見せるという演出です。これで画面写真が嘘にならないぞと(笑)。

[2016年6月24日午後1時20分修正]人名に関して、一部事実と異なる部分があったため修正させていただきました。

――『ナイツ』ではそんなことがあったんですか? 知らなかった。

竹崎 あとは『ナイツ』では当時4誌か5誌あったセガサターン専門誌の表紙を、発表会に合わせてジャックする企画を立てましたね。あれは“ソニックチームが作る『ソニック』じゃないすごいゲーム”をどうアピールするかをすごく考えた末に生まれたアイデアでした。同時期に双葉社でセガの攻略本を初めて出すということで、新聞に『ナイツ』の素材を使った全面広告も出してもらったんです。それくらいのことをしないと新規タイトルの垂直立ち上げはできないということですね。想い出深いタイトルです。

――中さんは、『クリスマスナイツ』の販路をいっしょに考えたともおっしゃっていました。

竹崎 中さんに見せてもらった『クリスマスナイツ』があまりにステキだったので、フルパッケージの商品にはならないけど、これをどうにか世に出す方法はないかなと考えました。あの当時はセガサターンとプレイステーションが値引き合戦の連続で疲弊していたので、値引きではない年末キャンペーンを考えようという声も出ていましたし。そこで、年末の本体購入者にクリスマスプレゼントという形で『クリスマスナイツ』を付けるというキャンペーンを考えたんです。同時に、すでに本体を持っている人には実費で送りますという立て付けをしましたが、これは僕がユーザーの立場で“後付のここだけ特典キャンペーン”をやられて腹が立った思いを当時のユーザーには味あわせたくないという理由からでした。

――PRの範疇を超えるかのような。

竹崎 当時は週に一度、セガサターンのマーケティング会議というのがあったんです。岡村さん(岡村秀樹氏。セガサターンからドリームキャスト時代まで、長年に渡りセガ コンシューマー事業を統括する立場として辣腕を振るう。現在ではセガホールディングス代表取締役社長COO)を座長に、宣伝や広報、マーケティング、ラインアップ編成の各マネージャーが集まって、“今後の販売戦略”をテーマに、みんなでセガサターンを盛り上げるためのアイデアを出しあう会議をしていたんですね。

――メガドライブからセガサターンのあいだに、2年ほどでずいぶんと様変わりしたようですね。

竹崎 スタッフの拡充などもあったのですが、セガ・コンシューマの部隊にいちばんの変革をもたらしたのは元バンダイの森さん(森連氏。バンダイ設立メンバーの杉浦幸昌氏とともにポピーを設立。『仮面ライダー』変身ベルトや超合金のヒットで大手玩具メーカーに躍進させる)がいらっしゃったことです。森さんが陣頭指揮をされて組織のありかたを変えられました。メガドライブの時期までのセガは完全にアーケードが主体の会社で“コンシューマーは片手間”みたいな空気がどこかにあったんですけど、海外でのメガドライブの成功もあって、セガサターンを立ち上げる際には日本でも本気で勝ちに行く部隊を組織したんです。入交さん(入交昭一郎氏。自動車メーカー・ホンダで多数の実績を残し、1993年にセガに副社長として入社。1998年~2000年まで社長を務める)が入社するときに、ホンダからいっしょに優秀なマーケターが来られたりもしましたね。

――連合艦隊が続々と集結するかのような! 当時のワクワク感が思い出されますね。ところで、『ソニック』シリーズはメガドライブ以降、一度お休みに入りますけど、PRの立場としては看板タイトルがしばらくないことはどのような気持ちでしたか?

竹崎 そこに違和感はまったくなかったです。中さんが当時言ってたんですけど、そのころのディズニー映画のビデオって一定期間売ったらしばらく再販がなかったんですよ。つまり、つねに露出を続けることでキャラクターは消耗をする、と。ソニックも、『1』のときはスピード感、『2』ではふたりプレイ、『3』と『ソニック&ナックルズ』ではキャラクターが増えてロックオンカートリッジというシステムを導入と、タイトルごとに新しいことをやっていたんですけど、それがゆえに新しくできることの限界まで来ていたんです。新しさを提供できないのに無理してシリーズを出し続けたら、お客さんに飽きられてキャラクターが死んでしまう。そういう中さんの考えは、道理だなと思ったので、PRとしては開発の意向に全面賛成でした。

●大事なことは約束を守ること、人として信頼されること
――竹崎さんご自身のお話に戻りますが、PR担当時代の数年間は、SEGA FAX CLUBというFAXで受信できるフリーペーパーを手がけられていたのも印象的です。

竹崎 僕がユーザーの立場でセガに対して不満に思っていたのは、“約束した期日を守らない”のと“顔が見えない”ことだったんです。前者は、SEGA JOYJOYテレフォン(セガの新作ソフト情報が聞けたテレフォンサービス)やゲーム図書館のSNN(セガ・ネット・ニュース。メガモデムを使って提供されていた)が更新日を過ぎてもそのまま更新されないとかね(笑)。後者は、雑誌の広報担当者コメントにしてもあっさりしたコメントの後に“セガ広報”と書いてあるだけで、どこの誰が何を伝えたいのかさっぱりわからない。だから僕は“セガ竹崎”って記名にすることで、そのコメントの向こうに生きた人間がいて、そのコメントに責任を持っていることをキチンと出していこうと考えました。FAX CLUBについては、ゲーム雑誌を買わない層の人たちに向けて、手軽に新作情報を提供するための手段ですね。ただ、あの手書きのペーパーを自分のデスクで作っていると仕事をサボっているように見えちゃう(笑)。ですので、作業は土日に自宅でやっていました。ただ土日が仕事で潰れるときもあったので、どうしても間に合わないときは「間に合いません、ごめんなさい」という原稿を臨時で入稿してました。手書きにこだわったのもそうですけど、そういう内幕も含めて“セガ”というのは単なるブランドだけではなく“セガで仕事をしている人間の集団”であることを知ってもらいたかったんですよね。

――ラジオ“林原めぐみのHeartful Station”に出演されていたのもそういった理由から?

竹崎 そうです。いまとなれば、あれも楽しい思い出ですね。僕は10分間の“遊星セガワールド”というコーナーを受け持っていたんですけど、林原さんが独壇場で楽しいトークをくり広げている真ん中で僕が出てきて、ただ宣伝をしてはリスナーが冷めてしまいますよね。そこで林原さんと相談して、お悩み相談やサイコロトークといった、ちょっとひねったコーナーにしよう、その中に自然にゲームの話も混ぜて、さらにゲームをリスナーにプレゼントするという形になったんです。サイコロトークってぶっつけ本番でやっていたので、保志総一朗くんが回答に困って林原→竹崎→保志で三段落ちみたいになるのはおもしろかったなあ。

――さらには、セガサターン専門誌にはセガの広報スタッフが記事を制作するコーナーもありました。

竹崎 あれもゲームタイトルで取れるページには限界があって、それよりも広い意味でのセガの姿勢を伝えていくためには、それ以外のアプローチが必要だったわけです。そこで「おもしろおかしいコーナーにしますので、モノクロページをください」と各誌の編集者にお願いしたんです。『マイコンベーシックマガジン』(電波新聞社刊の雑誌。読者投稿によるプログラム掲載が特徴)には対談形式の“ベーセガ”、『BEEP! メガドライブ』では“遊星セガスタジアム”、『グレートサターンZ』(毎日コミュニケーションズ刊のセガサターン專門月刊誌)に至っては小説を書いていましたからね。編集長から「うちにもぜひ書いてください」と言われた時点ですでにいくつもコーナーを持っていて、どれとも内容がだぶらないネタを考えた末に「小説でもいい?」といったらさすがに目が点になっていました(笑)。

――ちょっと尋常じゃない仕事量ですね。

竹崎 「セガのハードを売るためなら命も惜しくない」とまでは言わないけど、それくらいの勢いで仕事をしていましたからね。小学生のころに学級新聞でみんなが楽しんでくれた体験をきっかけに人を楽しませることを追求してきたし、途中からは自分でモノを作るよりもっと優れた作り手が作るモノを世に送り出すためのサポートをするほうがより多くの楽しさを世の中に提供できると思うようになりました。そういった過去の考えかたやノウハウのすべてをセガのハードを売るために注ぎこんでいたので、忙しいけど幸せでした。

――ここまでお話を伺っていると、理論的にお話をされてはいますが、根っこには“みんなに楽しいことを伝えたい”という情熱があってのことなのでしょうか。

竹崎 そうですね。世の中を楽しくしたいんですね。それに、情熱がなければこういった仕事をしていませんよね(笑)。でも情熱だけで走っても結果がでるわけではなく、つねに自分を客観視して評価し続けることが大事だと思っています。それは作る人も同じで、己の情熱だけで作ったゲームが他人にとっておもしろいかと言えばそうではないでしょう。いまはトムス・エンタテインメントというアニメ会社の役員をしていますが、そういった“想いと客観性”みたいな議論はアニメ業界でもよくある話ですね。

●『ソニック』が再び世界を席巻する日を願って
――そうして“熱意を形に変える”ことを続けてきた竹崎さんですが、育ちの場であるセガでの活動を振り返ってみて、どう思われますか?

竹崎 振り返ってみると、けっこうめちゃくちゃ好き放題やってきてますよね(笑)。でも、やってることはすべてセガという会社のために正しいと思ったことなんですよ。物事を自分の損得で考えたら人は失敗するというのが僕の信条で、つねに目線を会社の損得に、視座を高く持つことを心掛けています。ですから、自分の半生を振り返ると「自分だったらこうはしたくないけど、セガだったらこうすべきだよね」と考えて、それを実現するために、ときには突拍子もないように見える手法も含め考えて実行していった、ということです。

――いまはゲームのフィールドからは離れていますが、現在のゲームを取り巻く状況をどう思われますか?

竹崎 いまはセガグループという大きな枠組の中にいますけど、ゲームがすべてだとは思っていないんですよ。ゲームも映像作品もほかのエンタメもそうでしょうけど、可処分時間や画面の奪い合いをしているわけじゃないですか。スマートフォンなどのデバイスの登場もあって、ゲームも映画もマンガもすべて同列に並んでいる。だったらセガが提供するのは、ゲームであってもアニメであってもいいわけで、いろんな形のコンテンツがあったほうがいいと思っています。とくにいまのセガグループにとって大事なことは“稼ぐこと”だと思っているので、『ルパン三世』、『それいけ!アンパンマン』、『名探偵コナン』がヒットして大きく稼げることはありがたい。稼げるってことは娯楽を求めるお客さんのニーズにあっているということですからね。

――セガを離れたことに寂しさはない?

竹崎 多少は寂しい気持ちもありますが、不本意さはないです。そういった感覚ではなくもっと大きな視点で捉えているので、いまの仕事はやりがいがあって楽しくやっています。トムス・エンタテインメントという会社でもっともっとおもしろいコンテンツを世に送り出したいと思っています。

――最後に、『ソニック』へのメッセージをお願いします。

竹崎 現状はちょっと残念ですね。『ソニックアドベンチャー』は日本でいちばん売れた『ソニック』シリーズ作なのに、以降のシリーズ作はどんどん売り上げが下がってしまいました。『ソニックジェネレーションズ』は初心に戻ってけっこういけるんじゃないかと期待していたんですが、それほどでもなかった。25周年でこんな残念な話をするのは心苦しいけど、でもそこは、プロデューサーの飯塚さんたちソニックチームにがんばってもらって『ソニックアドベンチャー』を超える結果を出してほしい。ソニー・ピクチャーズとの提携で、実写+CGのハイブリッド映画が発表されていますが、こういったワールドワイドの映画ができてヒットすれば、またキャラクターとしての立ち位置も変るでしょうから。『ソニック』が大復活を遂げて、世界を駆けまわってもらえることを期待しています。

――ありがとうございました。セガグループの役員としての立場で、もっとセガが愛されるように仕掛けられることを期待しています。

最終更新:6月24日(金)13時24分

ファミ通.com

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由
昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。