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ラウドルップ、ストイコヴィッチ、リュングベリ…ユーロでプレーした歴代外国人Jリーガーを振り返る

SOCCER KING 6月24日(金)21時35分配信

 グループリーグ全日程が22日に終了し、出場24カ国から決勝トーナメントに進出した16カ国へと絞られたユーロ2016。25日からはいよいよ一発勝負のノックアウトラウンドが始まる。今回は「ユーロでプレーした外国人Jリーガー」をまとめてみた。知っているようで意外と知らない、ユーロとJリーガーの歴史を振り返ってみたい。

■ミカエル・ラウドルップ
ヴィッセル神戸(1996-1997)
デンマーク代表(1984、1988、1996)

弟のブライアンとともに、「ダニッシュ・ダイナマイト」と恐れられた80年代のデンマークを象徴するスーパースター。20歳で参加したユーロ84年大会でベスト4進出に貢献。88年大会でも1ゴールを挙げ、グループリーグ敗退に終わったチームのなかで気を吐いた。92年大会は予選を通じて活躍し、デンマークも内戦による制裁を受けたユーゴスラヴィアに代わって本大会の出場権を得たものの、メラー・ニールセン監督との意見の相違から参加を辞退。彼のいないチームは優勝を果たしている。4年後の96年大会では主将を務めたものの、1勝1分1敗の成績で大会を後にした。
クラブレベルでは1985-86シーズンにユヴェントスでスクデットを勝ち取り、バルセロナでリーグ4連覇を果たすなど、数々のタイトルを獲得。1994年に宿敵レアル・マドリードへ禁断の移籍を果たし、ここでもリーグ制覇を成し遂げた。
キャリア晩年の地として選んだのは日本。1996年に当時JFLのヴィッセル神戸に移籍し、Jリーグ昇格に貢献。翌年にJリーグで3試合に出場したのち、アヤックスからのオファーを受けて退団した。スター然とするのを嫌い、神戸時代の背番号にあえて5番を選んだのは彼の人柄を物語る有名なエピソードとなっている。

■ギド・ブッフバルト
浦和レッドダイヤモンズ(1994-1997)
ドイツ代表(1984、1988、1992)

80年代~90年代にかけて西ドイツ、統一ドイツ代表を支え続けたセンターバック。決勝戦でアルゼンチンのMFディエゴ・マラドーナをマンマークで封殺し、優勝の立役者の一人となった1990年のワールドカップがキャリアのハイライトだが、ユーロにも3大会連続で出場。84年、88年大会こそ控えだったが、92年大会ではレギュラーの座を守り、準優勝を成し遂げた。
1994年のワールドカップ・アメリカ大会を最後にドイツ代表を引退。その後、10シーズンにわたり所属したシュトゥットガルトに別れを告げて、当時、Jリーグの創設以来、不振に苦しむ浦和レッズに移籍した。彼の加入により劇的に守備が改善した浦和は、1995年の1stステージでは3位に輝くなど、成績も大幅に向上。浦和では1997年まで3年半にわたりプレーし、個人としても1995年、1996年に2年連続でJリーグのベストイレブンに選出された。さらに2004年には監督として浦和に復帰し、Jリーグと天皇杯の二冠優勝を達成した。

■ピエール・リトバルスキー
ジェフユナイテッド市原(1993-1994)
ブランメル仙台(1996-1997)
西ドイツ代表(1984、1988)

身長168㎝と小柄ながら、繊細なボールタッチと滑らかなドリブルで敵を置き去りにし、「ドリブラルスキー」の異名を取った80年代を代表する名ウィング。ベルリン生まれだが、父親の先祖はロシア系であり、当時の西ドイツでは珍しい移民系選手の先駆けとしても注目を集めた。
1981年に西ドイツ代表に初選出され、3度のワールドカップに出場。うち90年大会で優勝、82年、86年大会でともに準優勝に輝いた。一方のユーロはといえば84年大会は2試合に途中出場したのみでグループリーグ敗退、地元開催の88年大会ではレギュラーを確保していたものの、準決勝のオランダ戦でまさかのスタメン落ち。途中出場の10分後に相手FWマルコ・ファンバステンにゴールを決められ敗退するなど、失意を味わっている。
クラブキャリアの大半を過ごしたケルンを離れ、1993年のJリーグ開幕前にジェフユナイテッド市原に加入。衝撃的なプレーの数々で鹿島アントラーズのジーコらと共にリーグの黎明期を盛り上げた。1995年に引退したが、翌年に現役復帰して当時JFLのブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)でもプレー。監督としても横浜FCなどを率いた。

■ドラガン・ストイコヴィッチ
名古屋グランパス(1994-2001)
ユーゴスラヴィア代表(1984、2000)

「ピクシー(妖精)」の愛称で親しまれたセルビア生まれのファンタジスタ。20歳時にユーロ84本大会でユーゴスラヴィア代表デビューを果たし、1ゴールを決めるなど才能の片りんを覗かせたものの、86年ワールドカップ、ユーロ88では予選敗退となり、長らく表舞台から遠ざかっていた。彼が名声に轟かせたのは、90年のワールドカップ。決勝トーナメント1回戦でスペイン相手に2ゴールを挙げ、ベスト8入りの立役者となった。迎えた2年後のユーロ、ユーゴスラヴィアは7勝1敗と圧倒的な強さで予選を通過し、本大会の優勝候補に挙げられたものの、自身は負傷に苛まれ、さらには内戦による制裁により、本大会直前で出場資格を剥奪されてしまった。所属のマルセイユで満足に出場できず、クラブは八百長スキャンダルにより、2部への降格が決まってしまった。
失意のなか、94年に名古屋グランパスに加入。アーセン・ヴェンゲル監督の指揮下で輝きを取り戻した彼は、ユーゴスラヴィア代表のキャプテンとしてユーロ2000に出場し、全盛期を思わせるプレーでベスト8進出に貢献した。名古屋でのプレーは7年間に及び、2度の天皇杯優勝に貢献。個人としても95年にリーグMVPを獲得するなど伝説的存在となった。

■ヘラルド・ファネンブルグ
ジュビロ磐田(1993-1996)
オランダ代表(1988)

172cmと小柄ながら、卓越したテクニックと豊かな創造性を持ち、「ヘラルジーニョ」と呼ばれたドリブラー。1980年、アヤックス・ユースに加入した彼は、17歳の誕生日から1か月後に1軍デビューを果たし、そのままレギュラーの座を守り通して3度のリーグ優勝に貢献。1986年にはライバルのPSVアイントホーフェンへ移籍し、ここでも5度のリーグ優勝など数々のタイトルを獲得した。ユーロ1988では不動の右ウィングとして出場し、マルコ・ファンバステンらとともに、オランダに初の国際メジャータイトルをもたらした。
1993年に同郷のハンス・オフト監督に請われてJリーグへの参入を決めたばかりのヤマハ(現・ジュビロ磐田)に移籍。オランダ時代とは異なり、主に中盤のセンターで司令塔の役割を担ったが、ブラジル代表のドゥンガが加入してからは、リベロとしてプレーした。1996年、負傷により退団するが、のちの磐田の黄金期の礎を築いた名手として語り継がれている。

■セルゲイ・アレイニコフ
ガンバ大阪(1993-1995)
ソビエト代表(1988)
CIS代表(1992)

派手さはないが、巧みなパスでゲームをコントロールするベラルーシ出身のMF。2004年には、UEFA創立50周年記式典にてベラルーシのゴールデンプレイヤー(過去50年間の最優秀選手)に選出された同国を象徴する選手だが、全盛期はベラルーシが独立する以前のソビエト連邦時代に遡る。1986年のワールドカップでは、大会のベストゴールのひとつと賞賛された鮮やかなミドルシュートを決めてベスト16入りに貢献。さらに2年後のユーロでは全4試合にフル出場して準優勝を成し遂げた。準決勝のイタリア戦で見せた精力的なプレーがきっかけとなり、翌1989年、9年間所属したディナモ・ミンスクに別れを告げてユヴェントスに加入した。
ソ連崩壊後、CIS(旧ソ連)代表としてユーロ1992に参加したが、グループリーグ最下位に終わり、キャリアも終わりに差し掛かる頃、Jリーグのガンバ大阪に入団。チームは低迷し、矢継ぎ早に外国籍選手が入れ替わるなかで、3年にわたり在籍して83試合に出場した。
彼が再び日本でプレーしたのは2013年。「ユヴェントス・レジェンズ」の一員としてベガルタ仙台の20周年記念試合に出場した。毛髪は薄れたが、トレードマークの口ひげはやはり健在であった。

■オレグ・プロタソフ
ガンバ大阪(1994-1995)
ソビエト代表(1988)

3度のソ連リーグ得点王に輝き、ソ連代表として二度のワールドカップに出場。同じウクライナ生まれのFWオレグ・ブロヒンに次ぐ歴代2位の 29ゴールを挙げた名ストライカー。186cmの長身とポジショニングのセンスを生かして、ペナルティエリア付近で力を発揮する典型的なセンターフォワードであった。
キャリアのハイライトは、のちにガンバ大阪でチームメートとなるセルゲイ・アレイニコフらと臨んだユーロ1988。イングランド戦とイタリア戦でゴールを決め、ソ連を決勝進出に導いた。当時はオランダの点取り屋マルコ・ファンバステンのライバルと評されていたが、決勝戦ではそのライバルに大会のベストゴールともいえる鮮やかなボレーシュートを目の前で決められ、優勝を逃している。
1994年、ガンバ大阪に加入。アレイニコフに加えて、アフリク・ツベイバと旧ソ連トリオを結成。二年間で28ゴールを挙げたものの、チームの成績は上向かず、翌1995年限りで退団することとなった。

■ギャリー・リネカー
名古屋グランパス(1992-1994)
イングランド代表(1988、1992)

イングランド代表で歴代3位となる48得点を決め、1986年のワールドカップで得点王を獲得。レスター、エヴァートン、トッテナムと所属した母国のクラブで一度ずつ得点王を獲得した実績を持つ80年代屈指の名ストライカー。1986年から3年にわたり在籍したバルセロナでは、ヨハン・クライフ監督に右ウィングという不慣れなポジションにコンバートされたものの、103試合42ゴールと結果を残している。その一方、二度の大会に出場したユーロでは、92年大会を負傷欠場したポール・ガスコインらパサーの不在もあってに恵まれなかった。
1993年、Jリーグ開幕に合わせて名古屋グランパスに加入、当時のJリーグでは最高額となる3億円の移籍金から注目を集めたが、自身は負傷もあってわずか7試合の出場にとどまった。1994年にはドラガン・ストイコヴィッチが加入して、夢の2トップの実現にファンは胸を躍らせたものの、リネカーは相変わらず負傷がちで、Jリーグ通算4得点に終わり、この年限りで現役に幕を下ろした。

■フリオ・サリナス
横浜マリノス(1997-1998)
スペイン代表(1988、1996)

スペイン代表として通算56試合出場22得点の実績を残した、90年代のスペインを代表する大型センターフォワード。巨躯ながら足下の技術が高く、長身を生かしたポストプレーを得意とする。3度のワールドカップで通算3ゴールを挙げた一方、二大会に出場したユーロでは不発に終わった。88年大会ではエミリオ・ブトラゲーニョとのポジション争いに敗れ、わずか40分の出場、96年大会ではグループリーグ3試合を通じて控えとなり、ベスト8のイングランド戦でようやく先発出場を果たすも、前半のみで途中交代。チームはPK戦の末、敗退した。
クラブレベルでは出生地であるアスレティック・ビルバオでキャリアを始め、アトレティコ・マドリードやバルセロナなどでプレー。バルセロナではドリームチームの一員として91-92シーズンのチャンピオンズカップ優勝に貢献した。1997年に横浜マリノスに入団し、城彰二との大型2トップがリーグを席巻。J1記録となる8試合連続得点を達成した。

■アイトール・ベギリスタイン
浦和レッドダイヤモンズ(1997-1999)
スペイン代表(1988)

バスク語で「小さな」を意味する「チキ」の愛称を持つ小柄なレフトウィング。豊富な運動量を生かしてスペースを見つけては走り込み、左足で正確なクロスを放った。
レアル・ソシエダで6シーズンにわたりプレーしたのち、1988年にドリームチームと称されたバルセロナの一員となり、チャンピオンズカップ優勝や4度のリーグ制覇など、数々のタイトル獲得に寄与した。この頃からスペイン代表の常連となり、ユーロ1988のメンバーに選出されるも、イタリア戦で途中出場を果たしたのみで、チームはグループリーグ敗退となった。
1997年に浦和レッズに入団。1998年には大物ルーキーの小野伸二、セルビア・モンテネグロ代表のゼリコ・ペトロヴィッチらとともに魅惑の中盤を形成し、2ndステージで3位の好成績を残す。しかし翌年は小野や自身の負傷が響いて低迷し、クラブはJ2に降格することとなった。
引退後の2003年からは古巣バルセロナのディレクターに就任。現在はマンチェスター・シティのディレクター職を務め、盟友ペップ・グアルディオラ監督の招聘に尽力した。

■ピーター・ボス
ジェフユナイテッド市原(1996-1997、1999)
オランダ代表(1992)

統率力に秀でた守備的MF。フィテッセでのデビューを皮切りにオランダやフランスのクラブを転戦し、1991年に強豪フェイエノールトへ。同時期にオランダ代表に選出され、ユーロ1992本大会に参戦した。グループステージのドイツ戦では87分に途中出場。3-1のスコアを最後まで守り抜いて勝利に貢献した。その後、彼に出番は訪れなかったものの、チームは3位の好成績を残している。
1996年9月、ジェフユナイテッド市原に入団。しかし、ホーム最終節となったヴェルディ川崎戦で三浦知良にハットトリックを許して大敗を喫するなど、チームの成績は上向かず。翌年もホームでジュビロ磐田に5ゴールを許し目前で優勝を決められるなど不甲斐ない成績に終始し、この年限りで退団した。しかし1999年途中、1部残留争いの渦中にあった市原に再入団。中盤の底で崩壊寸前だった守備を引き締める救世主となり、1部残留に貢献した。
引退後は指導者の道を歩み、2013年にフィテッセの監督に就任してからは安田理大やハーフナー・マイクら日本人選手の指導に携わった。

■バジール・ボリ
浦和レッドダイヤモンズ(1996-1997)
フランス代表(1992)

激しいタックルと強靭なフィジカルでピンチの芽を潰す、コートジボワール出身のセンターバック、または右サイドバック。8シーズンにわたり在籍したオーセールを離れ、1990年にマルセイユに移籍。1992-93シーズンのチャンピオンズカップ決勝では全盛期のミラン相手にヘディングを決めて、マルセイユを優勝に導いた。
フランス代表としては通算45試合に出場。エリック・カントナやジャン・ピエール・パパンらスターに恵まれたユーロ1992で彼自身も全3試合にフル出場を果たしたが、伏兵デンマークに足元をすくわれるなど2分1敗の成績で大会を後にした。スコアレスに終わったイングランド戦では相手DFスチュアート・ピアースに頭突きを食らわせ、審判の死角であったため処分を受けなかったことは、イングランドで長らく語られ続けている。
グラスゴー・レンジャーズ、モナコでのプレーを経て1996年に浦和レッズに加入。97年の退団までに公式戦45試合に出場した。ギド・ブッフバルトらと強固な最終ラインを形成し、Jリーグ創設時の低迷から一転して、優勝争いに顔を出すほどにチーム力を高めた。

■フリスト・ストイチコフ
柏レイソル(1998-1999)
ブルガリア代表(1996)

ずんぐりした体型から想像できない高速ドリブルと、左足から繰り出される破壊的なシュートでゴールの山を築いたブルガリアの傑物。1994年のワールドカップで得点王を獲得して母国を歴代最高のベスト4に導き、この年のバロンドールを受賞した。バルセロナではブラジル代表ロマーリオとコンビを形成してドリームチームの中枢を担い、4度のリーグ優勝、チャンピオンズカップ優勝に貢献した。
ユーロは96年大会に出場。グループリーグ3試合に出場し2ゴールを挙げたものの、チームは敗退を喫した。しかし、ストイチコフが左足の数回のタッチのみで敵陣中央を突破し、そのまま左足のトゥーキックでシュートを鎮めたルーマニア戦の開始3分のゴールは、大会のベストゴールのひとつと賞賛された。
バルセロナを退団後は、母国やサウジアラビアで過ごし、1998年に柏レイソルへ。ピークは過ぎていたが、同年のセレッソ大阪戦で沈めた弾丸FKや、ワンステップで繰り出されるライナー性のサイドチェンジなどで、何度もファンの度肝を抜いた。

■フレドリック・リュングベリ
清水エスパルス(2011-2012)
スウェーデン代表(2000、2004、2008)

2度のワールドカップ、3度のユーロに出場した2000年代のスウェーデンを代表するアタッカー。推進力のあるドリブルで敵陣を縦横無尽に掻き乱し、2列目からの鋭い飛び出しでゴールを奪った。
初の国際舞台となったユーロ2000ではグループリーグ3試合にフル出場したものの、決勝トーナメント進出はならず。4年後の2004年大会では一戦目のブルガリア戦で先制ゴールを奪うなどチームに勢いをもたらし、ベスト8入りに貢献した。4年後の2008年大会では主将を務め、グループリーグ3試合にフル出場したものの8強には届かず、大会後に代表からの引退を表明した。
クラブレベルでは1998年にアーセナルに入団し、2001-02シーズンはプレミアリーグとFAカップの2冠達成に尽力。9シーズンに及んだアーセナルでの在籍を経て、キャリア晩年はアメリカやスコットランドを転戦。そして2011年9月、清水エスパルスに加入した。
Jリーグに久々にやって来た大物外国人として注目を集めたが、負傷もあって公式戦11試合に出場したのみで退団し、現役引退を表明。2014年にインドで3カ月のみ現役復帰を果たしている。

■パベル・ホルバート“ホルヴィ”
ヴィッセル神戸(2004-2006)
チェコ代表(2000)※出場機会なし

左足から放たれる強烈なミドルシュートと精度の高いプレースキックでチャンスを演出したMF。1996年から名門スラヴィア・プラハで頭角を現し、1999年にチェコ代表デビュー。3年間で19キャップを刻んだ。ユーロ2000のメンバーに選出されたものの、パヴェル・ネドヴェドやトマシュ・ロシツキら中盤の分厚い選手層を前に、自身の出場機会は回ってこなかった。チェコはグループリーグを1勝2敗で終え大会を後にした。
海外挑戦となったスポルティング・リスボンやガラタサライでは苦戦したものの、同胞のイワン・ハシェックに請われ2004年に加入したヴィッセル神戸では3年間で60試合に出場、12ゴールを挙げるなど、本領を発揮した。
神戸を退団後も長らく現役生活を続け、スパルタ・プラハで自身初のリーグ制覇を経験するなど、30歳を超えてキャリアの全盛ともいえる時期を過ごした。2008年に移籍したヴィクトリア・プルゼニではキャプテンを務め、リーグ連覇に貢献。2012年にはヨーロッパリーグ史上最高齢となる37歳214日でゴールを記録し、2015年、40歳で現役生活に幕を下ろした。

■アフリク・ツベイバ
ガンバ大阪(1994-1996)
CIS代表(1992)

旧ソビエト連邦、ジョージア出身のセンターバック。1990年にソ連代表に初選出され、同年のワールドカップに参加。ユーロ92にはCIS代表として臨み2試合にスタメン出場したが、2枚の警告をもらい、3試合目は欠場となった。のちにウクライナ代表、ロシア代表としてもプレーしている。
1994年にソ連代表のチームメートだったオレグ・プロタソフと共にガンバ大阪に加入。本職のセンターバックに加え、デビューしたばかりの宮本恒靖とダブル・ボランチを形成し、重戦車のようなドリブル突破で攻撃にも顔を出した。自身のファールにより与えたPKをGK本並健治が止めた際、彼の頬に濃厚な祝福のキスをした場面は、Jリーグ史に残る名(迷)場面として語り継がれている。

■イゴール・レディアコフ
横浜フリューゲルス(1998)
CIS代表(1992)※出場機会なし

ソビエト連邦のソチ生まれ。長身ながらテクニックに優れ、ストライカーとセンターハーフをこなした。ユーロ1992にCIS代表として参加したが、出場機会に恵まれず。2年後のワールドカップでは1試合に出場した。
1994年から2002年までスポルティング・ヒホンに在籍していたが、途中、1998年に横浜フリューゲルスにレンタル移籍で加入。バルセロナ出身の名将カルロス・レシャックの指揮下、3-4-3という攻撃的なシステムで、元ポルトガル代表パウロ・フットレらと魅惑の攻撃陣を形成。自身も15ゴールを記録したが、成績は上向かず、スポンサーの撤退によるクラブ消滅をもって退団した。

■ムラデン・ムラデノヴィッチ
ガンバ大阪(1996-1997)
クロアチア代表(1996)

ファイト溢れるプレースタイルから母国で「ランボー」の愛称で呼ばれた中盤のダイナモ。1990年のワールドカップ直後のクロアチア代表創設当時から代表メンバーに選ばれ、初めての公式戦となったアメリカ代表との歴史的一戦にも出場した。
1996年にガンバ大阪に加入。当初は守備的な役割を期待されたが、持ち前の豪快なシュートを買われてFWにコンバートされ、20試合で11得点を記録した。同年、ガンバ大阪在籍時にユーロ1996に参戦。現役Jリーガーとして史上初めてユーロに参戦した選手となった。ユーロでは一転、ダボル・シューケルら華やかな攻撃陣を影で支える堅実なハードマーカーの役割に徹し、3試合に出場。準決勝進出に貢献した。

■ユーリ・ニキフォロフ
浦和レッドダイヤモンズ(2003-2004)
ロシア代表(1996)

対人プレーと空中戦に無類の強さを発揮したウクライナ出身の大型センターバック。ソ連代表の年代別代表に選ばれてきたエリートで、ロシア代表の発足後は祖国ウクライナではなくロシア代表を選択。1994年のワールドカップ出場を経て、ユーロ1996では2試合にフル出場したが、この大会で優勝するドイツ相手に3失点を喫するなど、力不足を露呈した。
2002年の日韓ワールドカップのメンバーにも選ばれ、日本戦にも出場したが、稲本潤一のゴールによりこの試合を落とすなど、1勝2敗で大会を後にしている。翌年、浦和レッズに入団。負傷によりわずか1年の在籍となったが、Jリーグ発足後、クラブ史上初のメジャータイトルとなったナビスコカップ獲得に大きく貢献したことで、ファンの記憶に残る名選手となった。

■ブライアン・ニールセン
浦和レッドダイヤモンズ(1996)
デンマーク代表(1996、2000)

豊富な運動量で攻守にわたり動き回り、正確なキックで攻撃を組み立てたゲームメーカー。故郷のヴェイレやオーデンセ、名門コペンハーゲンなどデンマーク国内のクラブで実績を残し、デンマーク代表として66試合に出場した。ユーロ1996年大会に参戦し、3試合でプレーしたが、グループリーグ敗退と結果を残すことはできなかった。
大会終了後、浦和レッズに期限付き移籍で加入し、ミカエル・ラウドルップ以来となる史上二人目のデンマーク人Jリーガーとなる。10番を背負い、セットプレーのキッカーを任されるなど期待は大きかったが、フィットできずにわずか5カ月間のみで退団した。国立競技場で行われた柏戦では、現在も浦和のリーグ最多得点試合タイ記録である7-0の勝利に貢献した一方、試合終盤に退場処分も味わった。
ユーロ2000年大会では2試合に出場するも3戦全敗でグループリーグ敗退。2年後の日韓ワールドカップではベスト16入りを果たしている。

■アルパイ・オザラン
浦和レッドダイヤモンズ(2004-2005)
トルコ代表(1996、2000)

2002年の日韓ワールドカップでベスト4入りに貢献したトルコを代表する屈強なセンターバック。ユーロは1996年と2000年大会に出場。1996年は3試合にフル出場したものの、3戦全敗でグループステージ敗退となった。クロアチア戦では相手FWに故意のファウルを犯さなかったことでフェアプレー賞を受賞したものの、それが失点につながったことで批判の対象にもなった。4年後の2000年大会では1勝1敗1分の2位でグループリーグ通過を果たし、ベスト8入り。自身も4試合連続スタメン出場していたが、準々決勝で相手DFフェルナンド・コウトを殴り、退場。またしても敗因となってしまった。
日韓ワールドカップ後はアストン・ヴィラで活躍をつづけたが、代表戦でディヴィッド・ベッカムを挑発し、英国民を敵に回したことでイングランドを追われることとなった。韓国でのプレーを経て、2004年に浦和レッズに加入。ラフプレーによる退場癖は相変わらずだったが、ナビスコカップ決勝進出、クラブ初のステージ優勝など、わずか10試合の出場ながらクラブ史に大きな足跡を残し、ファンに愛され、語り継がれる存在となった。

■ロレンツォ・スターレンス
大分トリニータ(2001)
ベルギー代表(2000)

ワールドカップに3度出場したベルギーを代表する守備的MF、またはリベロ。器用さはないが、豊富な運動量と統率力を携えており、破壊的なミドルシュートを武器にキャリア全体で100ゴール以上を決めるなど、得点力も備えていた。
地元開催となったユーロ2000では、主将として3戦フル出場を果たすも、チームはわずか1勝したのみでグループリーグ敗退となった。翌年、2年連続勝点1差でJ1昇格を逃していた大分に加入。しかし家庭の事情でシーズン途中に彼が帰国すると、チームは停滞して昇格を逃した。スターレンス自身も、この年限りでの引退を表明した。

■ジェリコ・ミリノヴィッチ
ジェフユナイテッド市原(2001-2004)
スロヴェニア代表(2000)

空中戦に圧倒的な強さを発揮したセンターバック。のちにJリーグでも指揮を執ったズデンコ・ベルデニック監督の元、1997年にスロヴェニア代表デビュー。同国初の国際舞台となったユーロ2000ではグループリーグ3試合にフル出場を果たし、2 年後の日韓ワールドカップにも出場した。生まれ故郷である首都リュブリャナの複数クラブでプレーしたのち、2001年に恩師ベルデニック監督の誘いを受けてジェフユナイテッド市原に入団。2003年にはイビチャ・オシムの元で年間総合3位に躍進したチームの主力を担った。

■アミール・カーリッチ
ガンバ大阪(1997-1998)
スロヴェニア代表(2000)

スロヴェニア代表として64試合に出場した左サイドの職人。同じユーゴスラヴィア出身のロベルト・ヤルニのように、卓越したスピードと正確無比の左足のクロスを武器に、ユーロ2000、2002年日韓ワールドカップそれぞれ全3試合に先発出場した。
1997年にガンバ大阪に入団。その髪型から「浪速の板前」の愛称で親しまれたが、すでにクラブはカメルーン代表FWパトリック・エムボマら3人の外国籍の実力者を抱えており、わずか5試合の出場にとどまった。翌年は一転してレギュラーを確保し、精度の高いFKを披露したものの、エムボマの退団とともに成績が低迷した煽りを受けて、シーズン途中で帰国した。

■イリアン・ストヤノフ
ジェフユナイテッド千葉(2005-2007)
サンフレッチェ広島(2007-2010)
ファジアーノ岡山(2011)
ブルガリア代表(2004)

ロングパスやフリーキックを得意とするなど、高度なテクニックで攻撃にも顔を出すディフェンダー。1998年にブルガリア代表デビューを果たし、ユーロ2000では2試合に出場。デンマーク戦ではセンターバック、イタリア戦では左サイドバックで出場するなど持ち前の柔軟性を発揮したが、チームはグループステージで敗退となった。
ブルガリアの強豪レフスキ・ソフィアを退団後、2005年にジェフユナイテッド市原・千葉に加入。イビチャ・オシム監督の下でリベロとしてプレーし、Jリーグ発足後、クラブ初のメジャータイトルとなったナビスコカップ優勝に貢献した。2007年にサンフレッチェ広島に移籍。2009年には4年ぶりにブルガリア代表にも復帰するなど輝きを放ったが、負傷もあって2010年に限りで広島を退団。2011年のJ2ファジアーノ岡山でのプレーをもって、現役を引退した。

■イヴィツァ・ヴァスティッチ
名古屋グランパスエイト(2002-2003)
オーストリア代表(2008)

破壊的な右足のシュートでゴールを量産し、端正なマスクと“イヴォ”の愛称で親しまれたオーストリアの国民的ストライカー。旧ユーゴスヴァア時代のクロアチアで生まれたが、内戦の影響によりオーストリアに移住し、名将イビチャ・オシム監督率いるシュトゥルム・グラーツで8年にわたりエースとして活躍した。オーストリア代表としても1998年のワールドカップに出場し、1ゴールを挙げるなど輝きを放った。
2002年に名古屋グランパスに入団し、ブラジル人FWウェズレイとの破壊的な2トップで1stステージはチームを3位に導いたものの、2ndステージは一転、自身の負傷もあって13位に転落。翌年に退団を表明し、ラストマッチでは劇的なミドルシュートを叩き込んだ。オーストリアへ帰国後も4シーズン連続で二桁得点を記録するなど衰えは見られず、2008年、地元開催のユーロ2008に合わせて代表復帰を果たす。グループステージ敗退となったが、ポーランド戦では終了間際に同点のPKを決め、祖国にユーロにおける史上初の勝ち点をもたらした。38歳257日でのゴールは、現在に至るまで大会最年長記録となっている。

■マト・ネレトリャク
大宮アルディージャ (2009-2010)
クロアチア代表(2004)※出場機会なし

空中戦に圧倒的な強さを武器とする大型センターバック。左足の威力と精度にも定評があり、所属チームではしばしば直接FKのキッカーを任された。クロアチア国境沿いにあるボスニア・ヘルツェゴビナ出身だが、国籍を持つクロアチア代表を選択し、2001年に代表デビュー。2004年、名GKオリヴァー・カーンを擁するドイツとの親善試合で得意のヘディングから代表初ゴールを奪うなど結果を残し、ユーロ2004のメンバーに選ばれたが、本大会において出場機会は訪れなかった。クロアチアは2分1敗で大会を後にしている。
クロアチアの強豪ハイドゥク・スプリトを経て、2005年に移籍した韓国の水原三星では4シーズンに在籍してリーグ優勝など多くのタイトルを獲得。2009年に大宮アルディージャに引き抜かれ、在籍した2年間で公式戦70試合とフル稼働し、DFながら15ゴールを挙げるなど、得点源としても存在感を示した。

■イゴール・ツビタノヴィッチ
清水エスパルス(2002)
クロアチア代表(1996)※出場機会なし

左足の正確なシュートと空中戦の強さを武器に、クロアチア国内で歴代2位となる122ゴールを挙げた大型ストライカー。ユーロ1996の代表メンバーに選ばれたものの、ダボル・シューケルやアレン・ボクシッチら既に世界的名声を手にしていたFWたちの活躍もあり、出場機会が訪れることはなかった。チームは初の国際メジャートーナメントにも関わらず、ベスト8進出を果たしている。
2度の母国リーグ得点王に輝いた一方、国外でのプレーは精彩を欠いた。2002年に加入した清水エスパルスも例外ではなく、公式戦6試合に出場したのみで退団に至った。唯一のゴールは、ホームのFC東京戦で挙げた延長Vゴールで、清水の開幕からの4連勝に貢献した。

SOCCER KING

最終更新:6月25日(土)10時58分

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