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[ルポ]「最後の朝鮮人労働者たちの集団居住地」ウトロ地区撤去開始

ハンギョレ新聞 6月30日(木)6時56分配信

朝鮮人「75年の哀歓」も油圧ショベルが押しつぶす 歴史の村、全面撤去後に新しい住宅を建設

 半分つぶれた屋根の下に、やせた木の壁と柱が素肌を現した。子供たちが走りまわり、毎年緑で埋まった小さな中庭は、荒々しい油圧ショベルで姿を消した。京都府宇治市伊勢田町51番地。日本に残る最後の朝鮮人労働者たちの集団居住地のウトロ地区が今、歴史の中に消えようとしている。韓国政府の支援金と韓日市民社会の募金を加えて購入した土地に、日本政府、京都府、宇治市が公的住宅などを作る「ウトロ町づくり」事業が、梅雨を避けるため予定より1カ月前倒しされ、今月23日に本格的に始まったためだ。最初に解体される住宅は、1943年に父親についてここに来てから一度も離れたことのないカン・チュンジャさん(76)の家だ。

 「新居も良いけど、心はまだここ(ウトロ)にあります」
 カン・チュンジャさんは先月中旬、ここから車で25分の臨時居住地に引越したが、買い物と「飲み」を口実にウトロ地区を頻繁に訪れる。ウトロの唯一の戦後第1世代生存者のカン・ギョンナムさん(92)も「自分の家がなくなると思うとじっとしていられない」と唇を固く閉ざした。しかし、カンおばあさんも分かっている。工事は続けられ、おばあさんの家もなくなるだろう。予定通り「ウトロ町づくり」事業は進行しているが、住民の心からはなぜ憂いが消えないのだろうか。

 ウトロの守り手として活動している南区同胞生活センターのキム・スファン代表は、「ウトロの歴史性を排除して不良住宅改善事業だけが進行されている現状況」が根本的な原因だと指摘した。1941年、当事の日本政府が京都軍用飛行場を建設するために在日朝鮮人1300人余りを動員した結果、ウトロ地区は自然形成された。1989年に日産車体から土地を購入した西日本殖産が住民に対して強制退去を要求し、土地明け渡し訴訟を提起したため住民は追い出される危機に瀕した。日本の最高裁は2000年に退去決定を下し、その便りが知らされると、韓日の市民がウトロ地区保存のための募金運動に乗り出し、韓国政府も支援に動き問題解決の出口を開いた。紆余曲折の末、募金でウトロ地区の約3分の1にあたる土地2000坪を買い取ることにしたが、為替レートの変動と地価上昇で計画より面積を減らして土地はようやく買えたが、建築費の調達は見通しが立たなかった。そこで住民と彼らを支援する市民社会団体は、日本の行政を説得し、ここに公的住宅を作るというアイディアを出した。当面住民たちの住むところの用意も困難な状況で、在日朝鮮人たちの哀歓を保管しているウトロの原形を一部でも守ろうという要請は、まったく議論の対象にすらならなかった。住民たちを支援した日本の市民社会団体関係者たちも、事業の取消を憂慮して、日本行政府との交渉で“歴史”には触れないよう助言した。反省のない日本の歴史無視が「ウトロ町づくり」を通じて在日朝鮮人の痕跡抹消という形で現れた。

 今後4~5年かけて、1次と2次に分けて進行される工事が完了すれば、ウトロの住民たちは新たに建てられる公的住宅に入居して暮らすことになる。計画どおりに進めば、ウトロには労働者たちの集団宿舎として1980年代中盤まで人が暮らしていた「飯場」も、住民会館「エルファ」もなくなるだろう。滑走路に使う土を掘り出したために周辺の日本人居住区域より地盤が低く、浸水に頻繁に悩まされ、地面に板を一枚ずつ重ねて当てながら完成したウトロ住民たちの家は、それ自体が住民の屈曲した人生を見せる歴史の教科書だ。だが、それもまた新しいウトロにはない。

 一日の仕事を終えた油圧ショベルが唸りを止めて日が沈む。漆黒の闇と沈黙の中に埋められていくウトロの町のように、私たちの辛い歴史の一頁が消えていく。

ウトロ/イ・ジョンア記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:6月30日(木)15時10分

ハンギョレ新聞

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由
昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。