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そもそも音楽は反体制なのかどうなのか問題

ITmedia ビジネスオンライン 7月8日(金)11時13分配信

 1997年以来の歴史を持ち、日本最大級の野外音楽フェスとして知られる「フジロックフェスティバル」。このイベントに、若い政治運動家が出演することが発表されると、さまざまな議論が起こりました。【堀田純司】

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 大きく総括すると、まず「音楽に政治を持ち込むな」という声が上がった。それに対して、「そもそも音楽は反体制だ」という反論が出ました。

 「音楽は反体制」。確かに現代でも、聖堂でロシア大統領選への抗議活動を行い、逮捕されたプッシー・ライオットのような音楽集団が活動しています。

 歴史的に見ると、「音楽活動はすべて、むしろ政治的なメッセージを伝えるために行っていた」と言われる、90年代アメリカの「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」や、「俺はアナーキストだ」と歌った70年代のセックス・ピストルズなど、反体制、反権力の音楽家は枚挙にいとまがない。逆に「体制べったりのミュージシャン」というと、なにか変な感じもします(実際は保守よりの音楽家はいます)。

 そもそも音楽は反体制なのか。という問いは、「そうした伝統がある」という意味では「YES」と答えざるを得ないでしょう。

 もっとも社会の変化とともに、音楽も変わった。80年代に活躍した尾崎豊さんのメッセージが、現代の若者には共感されないという話がメディアで取り上げられたこともありました(「成人の日に――尾崎豊を知っているか」『朝日新聞』2012年1月9日)。

 しかし実は今、「反体制」が、若い層に向けた表現のテーマとして復権しつつある。

 その意味で、フジロックフェスティバルの巻き起こした論議は非常にタイムリーであり、象徴的だと感じます。

●音楽と「反体制」の歴史

 そもそもなぜ音楽は、反体制だったのか。これには歴史的な理由がありました。

 私たちは「終戦→高度成長→バブル→崩壊→その後の混迷」という歴史を、自分たち固有の物語のように思ってきましたが、メタ的に見ると、実は重点や時期が違っていただけで、西側諸国はどこも戦後、同じような道筋をたどってきた。

 社会学では「総力戦体制」と呼ばれていますが、20世紀中葉、諸国は国家資源を総動員する総力戦を戦った。そして戦後、その体制を生産にスライドさせ、史上空前の大発展を成し遂げていくのです。

 日本においては野口悠紀雄氏が「1940年体制 ―さらば戦時経済」で、戦後日本の制度が、実は戦時に起源があったことを指摘していますが、実はこの事情はどこも共通していました。

 この戦後の成長期は、人類史上、空前の大発展で、『ALWAYS 三丁目の夕日』のように、あの時代を懐かしく思う声は多いです。しかしリアルタイムの実感はどうだったのか。「みんなでがんばる」という一体感はあったものの、なんと言っても元が戦時体制だけに、非常に重苦しくもあった。「自由」がないと感じられていたのです。

 まさに「大きな政府」の時代。中心に国があって、その国と一体になって護送船団を形成する「会社」がある。そしてその会社で働く企業戦士を「学校」が養成していた。

 そうしたガチガチに構築された社会システムの「歯車のひとつ」となるのが「大人の生き方」でした。しかしそうしたシステムに対して、当時の若者は「個人の創造性が発揮されない」「そんな生活は人間らしくない」と反発した。

 60年代に、学生を中心にして「ヒューマン・ビーイン」(Human Be-In)という人間性の回復を目指す運動が盛り上がり、世界的に波及していく。もちろん当時、勃興していたポピュラー音楽もこの波の影響をもろに受け、相互に波及を呼び、1969年8月に開催された「ウッドストック・フェスティバル」として結実していきます。

●「大きな物語」が終わり……

 アメリカではベトナム戦争に対する反対、日本では日米安保条約への反対など、さまざまな契機はありましたが、その根幹にあるものはこの、20世紀の「自由がない社会システムへの反発」であり、その反発はシステムを構成する「会社」や「学校」、そして「大人」への怒りとして拡散していきました。

(ただ当時をリアルタイムに経験してきた人は、もはや結構なお歳。私もそうですが、現役世代の多くは、後追いだったのではないでしょうか)。

 しかし70年代後半から80年代にかけて、イギリス、そしてアメリカで「大きな政府」から、自由と自己責任の「小さな政府」への転換がはじまる。哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの言うところの「大きな物語」の終焉です。日本も中曽根政権の時にこの流れに追随し、後の橋本政権、そして小泉政権へとバトンが渡っていくことになります。

 この時代、音楽も変容し「ニューロマンティック」「産業ロック」といった、わりあいにあっけらかんとした分野も台頭します。

 国も社会も人も新しい時代の生き方を模索していくようになる。さらに90年代に入ってバブルが崩壊した日本では、この模索そのものがテーマになった。「自分探し」の時代です。

●応援歌になったポップミュージック

 ここからはもはや現代史です。

 かつては「反体制」が主題だった音楽も「私生活化」の波が訪れ、「愛が大事」「友だちが大事」「夢が大事」といった基本的な価値観の表明や、「フラれて情けない俺の気持ち」「自転車に乗った時の気分を思い出せ」「キセキ的なキミとの出会い」など個人的な情感の発露、「輝け俺の生活」といった人生の応援歌が主流になっていきました。

 一方、特にロック分野ではかつての反体制のスタイルが、ある意味、様式美として継承されてはいましたが、時代そのものが、よくも悪くもフリーダムに向かっていたために「自由に向かって革命を起こす」と歌われても、いまひとつピンと来なくなった。

 またアメリカで黄金期を迎えたラップの影響を受け、「俺たちには倒すべき敵がいる」と叫ばれても、その敵がどこにいるのかよくわからず、「どうも歌っている人も分かってないんじゃ」という状況も訪れる。

 それに、かつて「大人社会へのアンチ」という建前をもっていた不良社会も、存在基盤を失っていたため「悪いヤツはみんな友だち」と自慢されても、「うおカッコいい!」とは感じづらくなってしまいます。

 この時期、かつて反体制だったロックが、「ヴィジュアル系」としてお耽美な方向にシフトしていったのはある意味、必然のことでした。

 21世紀になると、安定はもはや望んでも手に入れ難いものなった。自由についても、例えば学級崩壊のように「フリーダム過ぎることの弊害」も見られるようになり、ネットでは、自由よりも秩序を重視する人の意見が目立つようになります。

 松任谷由実(荒井由実)さんが作詞作曲した1975年の「いちご白書をもう一度」という曲では、学生集会にも出席していた「意識高い系」の主人公が、就職が決まって髪を切って「もう若くないから」と、言い訳する様子が描かれますが、現代では、そこで言い訳する必要があるでしょうか。「やったー就職できたー」「よかったねー」と祝福されるのでないでしょうか。

 かつての映画や漫画では「しょせんは俺も平凡なサラリーマンになるのかなあ」「親父みたいなサラリーマンにはなりたくないよ」といったセリフが見られました。しかし、そもそも正社員になるのが難しい現代では、「なにお花畑なこと言っとるんだ」という感じがします。むしろ「サラリーマンとして働くお父さんの応援歌」がヒットするようになりました。

 こうした時代に生まれ、成人していった人たちが、音楽に政治的なメッセージが盛り込まれることに違和感を持つのは、無理もない。それはそれで正しく、当然とさえ言えると思います。

●人気コンテンツに現れる「反体制」

 ただ、ここにきてコンテンツの中に「反体制」の復権の兆し、まさに「反逆ののろし」が見られるようになってきました。

 アメリカの小説、スーザン・コリンズ『ハンガー・ゲーム』、ヴェロニカ・ロス『ダイバージェント』などがその典型ですが、これらの作品では、既得権益層を倒し、若い世代に負担を強いる社会システムそのものを「ぶっ壊してしまう」という展開が出てくる。こうした設定は、特にヤングアダルト向けコンテンツでは定番的に見られるようになってきました。

 これを読んで連想された方もいらっしゃるのではないでしょうか。日本の大ヒット作品『進撃の巨人』にも、「王政編」と呼ばれる展開があり、ここでは若者たちがクーデターを起こし、体制を変革。実権を握っていく政治劇が描かれます。

 もちろん「巨人」が「海外作品に影響を受けた」という訳ではなく(余談ですが巨大な壁が出てくる点で「進撃」と少しだけ設定が似た『メイズランナー』という作品も、若者たちが体制を変えていきます)、「優れた作品は、自然と歴史の中にある」ということなのでしょう。

 なぜ「反体制」が描かれ、共感されるのか。私にはその理由がわかるような気がします。かつて「大きな政府」がもたらした安定は過去のものになった。「一億総中流」は終わり、自由と自己責任の時代になった。それはいいとしましょう。

 しかしでは「小さくなった政府」はいったい何をやっているのか。もちろん国防やマクロ経済政策など、国ならではの機能を果たしているのでしょう。しかし、これにぶら下がって、ちゅうちゅう汁を吸う人間があまりにも多すぎるように見える。

 このシステムのインサイダーとアウトサイダーでは、生活がぜんぜん違う。これが大問題で、学校を出た時に首尾よくインサイドに入れなかった人は、そのまま一生、アウトサイダーでいる公算が高い。一方、インサイダーの中でも権益を握った人間、「上級国民」は、国民から強制的に集めた税金を巨大イベントなどで好きなように使っているように見える。かつては私生活まで面倒を見てくれた「会社」も、今ではうかうかするとブラック企業として搾取される。

 しばしばシステムの改革者を自称する人間が出てきても、実はその本当の目的は違う。自分自身が権益を握ると、すぐさま盛大にちゅうちゅう汁を吸いはじめ、美術品や服やガソリンのカードまで買ったりしはじめる。

 「だったら、このシステム自体をぶっ壊さないとダメだ」。読者はファンタジーの中の革命に、そうした気持ちを仮託して読んでいるのではないでしょうか。

●再び「反体制」の兆し

 アメリカの大統領選挙では、ドナルド・トランプ候補の躍進が報じられましたが、民主党のほうでも、バーニー・サンダース候補が善戦しました。トランプ候補は45歳以上の白人、サンダース候補は若い層と主力支持層は異なりますが、両者ともに、既存のシステムを否定していることでは共通します。

 イギリスは国民投票で、欧州連合(EU)からの離脱を決めましたが、離脱派の特徴はセレブ、すなわち「インサイダーがいないこと」でした。残留派がデーヴィッド・キャメロン首相を始め、企業の大物や、人気俳優のベネディクト・カンバーバッチなど「ビッグ」がいっぱいいたのに対して、離脱派で大物というと、前ロンドン市長のボリス・ジョンソンぐらい。しかも彼も、不倫事件により保守党の主流をはずされた、いわば異端者です。

 若者の75%は残留を望み、「老害が決めた」と言われるEU離脱ですが、私にはロックの故郷・イギリスに、「セレブが握る今のシステムをぶっ壊せ」という心情もあったのではないかと思われてなりません。

 こうした流れは、早晩、日本にも訪れる。その兆しとして、フジロックの巻き起こした論議はとても意義があったのではないでしょうか。恐らく、この先さらに「反体制」はコンテンツの主題として浮上していくのではないかと思います。

 個人的な感想で言うと、もはや伝説になってしまったものは立派で、かっこよく見える。まさに「伝説的に」語られます。しかしリアルタイムの当時は、たまらなく青臭く見えたりもしたのではないでしょうか。どうもそうした気がします。

堀田純司 作家。1969年大阪生まれ。主な著書に「オッサンフォー」「僕とツンデレとハイデガー」(講談社)、「メジャーを生みだす マーケティングを越えるクリエーター」(KADOKAWA)などがある。「ガンダムUC証言集」(KADOKAWA)では編著も手がけた。日本漫画家協会会員。

最終更新:7月8日(金)11時13分

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