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[寄稿]緑はよみがえる

ハンギョレ新聞 7月10日(日)17時57分配信

 過日、神田の岩波ホールでエルマンノ・オルミ監督の映画「緑はよみがえる」(原題Torneranno i prati.2014年,イタリア)を観た。第一次世界大戦100周年にあたって、監督がその父親の語った戦争体験を映像化した作品だ。

 オルミ監督の作品は以前(もう40年ほども前のことだ)、「木靴の樹」(L'albero degli Zoccoli.1978年,イタリア)を観たことがある。19世紀末の北イタリア、ベルガモの農村を舞台に、収穫の3分の2を地主に納めなければならないという苛酷な搾取のもとで生きる農民たち生活が描かれていた。ある日、村から遠い学校へ通う少年の木靴が壊れる。一家には新しく丈夫な靴を買い与える余裕はない。父親は川沿いに繁るポプラの樹を伐って新しい木靴を造ってやろうとする。だが、その樹もまた地主の所有物だった。父親は地主に咎められ、一家は地主に追われて、薄暗い夜明けのうちに、どこへともなく去っていく。

 これは、私からわずか1~2世代上の、祖先の経験でもある。私は、忠清南道の田舎道を思い出していた。李相和が「奪われた野にも春は来るか」と謳った1920年代、新作路工事に動員された私の外祖父は、ツルハシを妻の実家の庭に投げ入れておいて、腹をすかせた家族を養うため単身、日本に渡ったのだ。ポプラやコスモスで彩られたその貧しく美しい祖父の故郷を、私は1960年代に2度訪れたころがあったが、70年代の軍政期、兄二人が投獄されて以降は訪れていなかった。

 ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作「自転車泥棒」(Ladri di biciclette,1948年,イタリア)を挙げるまでもなく、貧しい庶民生活の哀愁を描かせればイタリア・リアリズム映画の右に出るものはない。「木靴の樹」も、その正統な流れを汲む作品だ。ただ、その映像美はきわめて絵画的で、ブリューゲルを想わせ、私に西洋絵画への憧れも掻き立てたのである。

「緑はよみがえる」は、オルミ監督にその父親が語った体験談をもとにしている。「この映画で語られることは、すべて実際に起きたことである。」

 1917年冬、イタリア・アルプス山中のアジアーゴ高原。凍り付いた雪原、黒々とそびえる峰々を月が照らしている。なんと厳しく美しい風景であることか。雪に埋もれた塹壕から、イタリア軍兵士の歌うナポリ民謡が低く流れる。姿の見えないオーストリア軍の塹壕からも、「いいぞ、もっと歌ってくれ」とせがむ声が聞こえてくる。

 両軍の兵士たちは飢えと寒さで疲弊しきっている。しかし、イタリア軍司令部から「通信が敵に傍受されているので、新しい通信線を敷設せよ」という理不尽な命令が下される。成功の見込みのない自殺行為だが、結局、命令には逆らえず、一人の兵士が任務を帯びて雪原を匍匐前進していく。しかし、いくらも進まないうちに、パンと乾いた銃声がこだまして、その兵士は動かなくなってしまう。じりじりとする緊張の時が続くが、ついに平穏は破られ、オーストリア軍の激しい砲撃が開始される。塹壕は破壊され崩落する。

 指揮官である大尉は上層部に反発して軍位を返上し、戦争の経験などまったくない若い中尉がやむなくその後任になる。この中尉が、オルミ監督の父親である。中尉は母への手紙に書く。「愛する母さん、一番難しいのは、人を赦すことですが、人が人を赦せなければ人間とは何なのでしょうか」 

 監督はインタビューで次のように語っている。「私の父が志願兵となったのは19歳の時だった。ヒロイズムの炎が、若者たちの心と魂に火をつけた。父は陸軍歩兵科の襲撃隊に参加することにした。父は多くの死を招いたカルソ(スべロニアとイタリアの国境地域)とピアーヴェ川(イタリア北部を流れアドリア海に注ぐ川)の戦いのまっただ中にいた。その体験は父の若さ、その後の人生に大きな傷跡を残した。父は幼い私と兄に戦争の苦悩についてよく話した。塹壕で死が待ち受けていることを知りながら、出撃命令をまつ時間の恐ろしさについて。そして私たちに戦争がいかに人を狂わせるものであるかを分からせようとした。」

 この映画を観ていて必然的に、私の思いはかつて訪れた北フランスの第一次大戦遺跡に繋がっていった。2003年夏、20世紀ドイツの画家オットー・ディックスを主題にしたドキュメンタリーに出演するため、私はNHKの撮影チームとともにその地を訪れた。酷暑の最中、あたりの風景がすべて真っ白くハレーションをおこして見えた。

 ベルギー南部から北フランス一帯、西部戦線の激戦の傷跡が残されている。ボーモン=ハメルのニューファウンドランド記念公園はカナダ兵戦没者の追悼施設だ。そこに、戦争中の塹壕がもっともよく保存されている。私は殴りつけるような太陽に灼かれながら、曲折する塹壕を何往復も歩いた。頭上に無数の白い蝶が乱舞していた。この時、私の頭に浮かんでいたのは、高校生の頃に見たルイス・マイルストン監督の映画「西部戦線異状なし」(All Quiet on the Western Front,1930年,アメリカ)のラストシーンである。塹壕に身を屈めて敵軍と対峙している兵士が、ふと蝶に気づく。白い蝶はひらひらと舞い、兵士の視線の先にとまる。兵士は蝶に手を伸ばす。あと10センチ、あと5センチ。そのとき鈍い銃声が響いて、頭を銃弾に打ち抜かれた兵士の腕は力なく大地に伸ばされたままとなる。そこにオーバーラップして、「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」というテロップが流れる。

 エーリヒ・マリア・レマルクの原作小説に、塹壕戦のリアリティーを伝える描写がある。「戦線に出ている間も、雨は降りつづけた。躰が乾いたということは、まるでなかった。……地面は湿って、ぽたぽた滴りそうな油の塊のようになり、その中に黄色い水溜が、螺旋状の赤い血の笑いを浮かべ、死人と負傷者と生き残った者は、次第にその土の中に沈んで行った。……僕らの手は、地面だ。僕らの躰は、粘土だ。僕らの目は、雨水の溜りだ。僕らはそもそもまだ生きているのかどうか、われながらわからないのである。」

 開戦時23歳だったディックスもまた、オルミ監督の父親がそうであったように、同時代の青年たちと愛国主義の熱気を共有していた。彼は自ら志願して入隊。野戦砲兵、機関銃兵として西部戦線に投入され、第一次大戦のほとんど全期間、苛烈な最前線を経験した。「しらみ、鼠、鉄条網、蚤、榴弾、爆弾、穴、死体、血、砲火、酒、猫、毒ガス、カノン砲、糞、砲弾、迫撃砲、射撃、刃、これが戦争! すべて悪魔の仕業!」――ディックスの戦場日記に書き殴られていた文字である。戦後その経験をもとに、ナチスの圧迫にも抵抗して反戦的主題の作品を描いた。画家ディックスは西部戦線における塹壕戦の経験から生まれた。(拙著『苦悩の遠近法』トルベゲ出版社)
 
 ディックスの銅版画「戦争」シリーズは1924年に刊行された。この年は「反戦の年」ともいわれるが、第一次世界大戦終戦からわずか6年、人々は早くも戦争の記憶を過去へと押し流し、次なる戦争に向けて急坂を転がり始めようとしていた。

 オルミ監督の映画の末尾では、雪原に高く立つ樹木が砲火を受けて炎上する。樹木は燃え尽き、無残な破壊の傷痕が広がる。エンディングに、羊飼いの言葉が流れる。「いずれこの地には緑がよみがえり、ここで起きたことは信じなくなる(忘れられる)」

 映画館から出ると、初夏の陽光が溢れる神田の街を老若男女が慌ただしく行き交っていた。近づいている参議院選挙でも改憲を目論む政権与党が有利と伝えられている。ついに日本国民たちは憲法9条(戦争放棄条項)を自ら捨て去るのだろうか。

 緑はよみがえる……これは再生の希望を語る言葉なのか?焼け跡に雑草の新緑が芽吹くように、人間たちは次々に生まれ育つ。悲惨な出来事は忘れられ、惨禍は繰り返される。時の流れは忘却の味方だ。時の女神と戦争の神とは睦み合っている。レマルク、ディックス、オルミ…芸術家たちはこの無慈悲な敵と、勝ち目の薄い戦いを続けているのだ。

徐京植(ソギョンシク)東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:7月10日(日)17時57分

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