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永さん次女「夢の中でもラジオを…」「生ききった幸せな最期」【一問一答】

デイリースポーツ 7月11日(月)21時47分配信

 ラジオパーソナリティーや作詞家として活躍したタレント、永六輔さんが7日に83歳で死去したのを受け、次女でフリーアナウンサーの永麻理が11日、東京・赤坂のTBSで会見した。永さんは「じゃあね、みたいな感じ」で穏やかに息を引き取ったことなどを明かした。【会見一問一答】

 -どのような最期でした?

 「最期はおだやかに。(1月末に背中の圧迫骨折で入院した病院から)4月19日に退院して、すごく(亡くなる)前の日まで元気だった。ふっと力が抜けるみたいに、苦しむことなく、『じゃあね』って感じの最期でした。本人も気がついてないかな?くらいの死に方だった。すごく自由な人だったんですけど、自由に『じゃあ、いいね。みなさん、ごゆっくり』みたいな感じでした」

 「私も、夢でも見てるような感じが今でもしてるんですけど。見事に生ききった、幸せな最期だと思います。亡くなる日は朝からウトウトしていて『あれ?』という感じで、スーっと(亡くなった)」

 -葬儀は?

 「今日昼に浅草の(永さんの)生家、生まれたお寺(最尊寺)で。おいっ子が20代目の住職。みんなでお経を読んで、ひつぎには好きだった食べ物やお手紙を入れました」

 -どんな父だった?

 「普通のお父さんじゃない。子供ながらに肩書きが分からない。今まで『どんな人だった?』と聞かれると、困っていた。みなさんが見ている永六輔と家の父はほとんど同じだと思います。粋でいなせでカッコイイ父でした」

 「照れ屋なので、褒めるときは手紙を書くんです。私たちは机に封筒が置いてあって、読む。娘に言いたいことは世の中に発信して、届いたらと思っているところもありました」

 -覚えている手紙は?

 「母は優秀で美人で、父が一目ぼれした女優の卵だったんです。私たちが大きくなったとき、(父が手紙で)『(母に)好きなことをさせてあげたいから、お母さんを自由にしてあげて』って。母を溺愛していたので。(亡くなったのが)七夕の日だったので、母に会いに『三途の川、じゃなく天の川を渡っちゃった』って家族では話しているんです」

 -パーキンソン病や前立腺がんとの闘病はそばで見ていてどうだった?

 「病気がなかったら、いつまでも好きなところを歩いていたと思う。『知らない横町を曲がれば、そこから旅が始まるんだ』と言っていた。車椅子で目的地にだけ行くのは、もどかしく、つらかっただろうと思う」

 「病気がつらいと口には出さなかった。何でも面白く遊んじゃう人。病気を楽しんじゃおうと、面白おかしく病気のことを話して、負のものを転換して、ネガティブをポジティブに、という思いが強かった」

 -黒柳徹子と親交が深かった。黒柳の追悼コメントでは“再婚話”も出ていたとあったが。

 「(黒柳は)何回もお見舞いにきてくれました。私にとっても第2の母。男女の友情って成り立つんだな、と思った。昨日(10日)も(自宅に来てくれて)1時間くらい思い出話をしましたし、最後には『永さん、死んじゃうのー!!』って(遺体を)揺らしてくれて。これからも徹子さんといろいろ思い出話をしようと話しました」

 -永さんとの最後の会話は。

 「前の晩にアイスキャンディを食べて『おいしいね』と、父も笑っていた。それが最後かな…。最後の方はろれつが回らなかったところもあるので」

 「闘病中も、寝てると思うとラジオみたいな声が聞こえてきた。『夢の中で講演会してるよ』って姉と話してたんですけど。寝てても仕事をしていたので、今も仕事をしてると思います」

 -10日が通夜だった?

 「決まったことをかちかちでやるのは嫌いな人だったので、通夜は飛ばしまして。8、9、10日と近しい方には(自宅に)顔を見に来てもらいました」

最終更新:7月11日(月)22時13分

デイリースポーツ