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minus(-)藤井インタビュー 急逝した森岡賢への想いと今後を語る

CINRA.NET 7月11日(月)20時1分配信

minus(-)の森岡賢の訃報が伝えられたのは去る6月7日のことだった。ニューアルバムの完成を間近に控え、ツアーのチケット売り出しが始まる矢先の、あまりにも唐突な死。ネット上ではファンだけでなく、彼を身近で知るミュージシャン仲間の追悼の書き込みが溢れ、故人の人柄を偲ばせた。

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残されたminus(-)のメンバーである藤井麻輝にインタビューする機会を得た。1983年、18歳の時に1歳年下の森岡と出会い、遠藤遼一(Vo)とともにSOFT BALLETを結成。以降30年以上もの間、「腐れ縁」(藤井談)であり続けた唯一無二の盟友は、今なにを考えているのか。ニューアルバム『O』の仕上げと、森岡抜きのminus(-)のライブの仕込みに忙殺される中、話を訊いた。

2時間近くにも及んだインタビュー、そして終了後の酒席に於いても、ついに藤井は「悲しい」「寂しい」「辛い」といった感情的な言葉を一切漏らすことがなかった。だが彼は何度も何度も、minus(-)に感じていた強い手応えと充実感を語り、本当にもったいないし悔しい、残念だと繰り返していたのが印象的だった。

■(森岡が)「いなくても見える」と思うんですよ。音を聴いて、イメージが喚起されれば、腰振ってクネクネしてる人が見えちゃうと思うんです。

―森岡さんが亡くなったのは、ちょうどminus(-)のアルバム作りが佳境に差し掛かっている時だったんですよね。

藤井:はい。本来なら昨日(6月16日)がマスタリングの日でした。

―作業は中断してるんですか?

藤井:いや、進んでます。一旦分解して、そこから始めてるところです。今までだったら、リリースして、ライブでそれをアップデートして、というスタンスだったんですけど、「次」がなくなっちゃったから、アルバムで完成、完結させなきゃいけない。つまり、以前はアルバムの段階では、あえて作り込まない状態で出していたんです。ライブという「次」があるから。でも「次」はもうない。だからアルバムの段階で、この時点でのminus(-)の完成形だよ、というものを作らなきゃいけない。そのために、もう一回ハサミを入れ始めているわけです。

―なるほど。森岡さんの訃報を受けて、予定されていたツアーのほとんどが中止になったわけですが、8月13日の赤坂BLITZ公演だけが開催される方向だとお聞きしています。これはどうしてですか?

藤井:BLITZは去年から決まっていて、その時既にminus(-)の音でやりたいステージングがあって。僕としても確固たるビジョンがあって、それはやってみたいステージのひとつなんで、1公演は残しておきたかった。

―なるほど。しかしminus(-)の大事なパートナーが不在の状態でのライブになるわけですよね。

藤井:ビジュアル面で確かに彼がいないのは大きい。ただ人間の脳って意外に面白い働きをするもので、「いなくても見える」と思うんですよ。音を聴いて、それによってイメージが喚起されれば、たぶん腰振ってクネクネしてる人が見えちゃうと思うんです。それぐらいで十分なのかなと。だから……けっこう本気で企画してたんで。これは飛ばせないんですよ。僕の節目としても飛ばしたくないライブだった。もちろんツアーもそうなんですが、さすがに全公演やるのは難しいので……。

―あとは11月19日に恵比寿LIQUIDROOMで、Jとの対バンが予定されています。

藤井:もう発表されたあとでしたからね。こちらの事情はどうあれ、先方に迷惑かけるわけにはいかないし。もちろんこちらの事情を説明して、先方の意思を確認して、出ることにしました。

―そのあとは制作中の新作『O』が出て、そこでminus(-)としての活動は一段落でしょうか。

藤井:実はあと1回決まっていて。昨年12月28日に新宿Renyでワンマンをやったんですけど、その時毎年決まった日に同じ場所でライブをやろうということになって、もう会場も押さえてたんですよ。minus(-)として決まっていた予定はできる範囲で粛々とやりたい、というのもありまして、そのライブはやろうと思ってます。

―なるほど。森岡さんがいなくなって、藤井さんの中でminus(-)というものの位置づけはどう変わってきましたか?

藤井:そもそもminus(-)は、僕が音楽活動に復帰して(2011年~2014年、藤井は音楽活動から離れていた)(minus(-)藤井、震災後に建築現場で働くことを選んだ表現者の想い)、とにかくライブがやりたいというところからスタートしたんです。でも一人じゃなんだから、ということで思い浮かんだのが森岡だった。「手持ちの素材で曲になってないようなものがあれば、僕が曲にするから、とりあえずやろうよ」って声をかけたんですよ。

それで2年前の5月に高円寺HIGHで初ライブをやったんですけど、そもそもその高円寺HIGHのライブのためのユニットであって、そのあとの長期的なビジョンがあって始めたわけじゃない。それがなんだかんだ気がついたらミニアルバムが2枚出て、フルアルバムまで決まって。

―求められるままやっていたという感じなんですか。

藤井:いや、僕も楽しんでたんですよ。まるでアマチュアバンドがCDを出すまでの過程を体験してるような新鮮な気持ちでやれていた。このぐらいのキャリアがあると、予めいろいろ決まった上で動くじゃないですか。

―事前に計画を立てて。

藤井:はい。でもminus(-)はある意味そうじゃない。僕らとしてはその過程がいちいち新鮮で楽しかった。このままどんどん大きくなっていけばいいなあと思ってましたね。

―楽しんでいたし、手応えを感じてもいた。それは睡蓮やSCHAFTの我が身を削るようなしんどさとは違っていたわけですよね。

藤井:minus(-)もかなりしんどいですよ(笑)。違った意味の苦労が数百倍あったんで。でも……なんて言うんだろうなあ……僕と森岡の関係性ってかなり独特なんで。それはたぶん外からはわからないと思うんですけど……ガンガン貶しながら積み重ねていける感じ?

―付き合い長いわけじゃないですか。

藤井:32年ですからね。

―お互いのことは十分知り尽くして……。

藤井:いや……接触のない期間も長かったですからね。うーん……なんとも言えない関係性ですね。

■ここ十何日でいろいろ考えてみたんですけど、一言で表すとするなら、「弟」というのが一番言い得て妙かなと。

―森岡さんに初めて出会ったのはいくつの時ですか?

藤井:僕が18で、森岡が17だったと思います。

―言ってみれば子供と大人の端境期に出会った。将来なにになるかもわかってない時期。

藤井:会ってしばらくしたら電話がかかってきて、電話口で延々と自作テープを2時間ぐらい聴かされたんですよ。「僕、今こんなの作ってるんだよね」って。当時はデータで送るとか当然できないし、延々受話器をスピーカーにくっつけて聴かされたんですけど、レコード流してるんじゃねえの、って思うぐらい完成度が高かった。びっくりしましたね。

―なるほど。

藤井:当時、森岡の家は新宿で、僕も音羽で近かったからよく遊びに行くようになって、一緒に曲を作ったりして。僕と森岡の最初の合作は、NHKの番組のオープニングタイトルの音楽だったんですよ。当時、二人でCM音楽の仕事とかやってたんです。一緒に遊んだりしつつ、NTT「カエルコール」のCMとか、けっこう大きな仕事をしてました。そういう仕事は彼のお父さん(作曲家の森岡賢一郎)から回ってきたんじゃないかな。

―そんなことをやってたんですね。その頃印象に残っているエピソードなどは?

藤井:うーん……あんまりないかも。

―(笑)。仲は良かったわけでしょ?

藤井:仲がいい悪いっていうのも、僕らには当てはまらない気がしてて。なんでしょうね。普通の感覚で言ったら、仲がいいわけじゃないと思います。常に一緒にいるとか、そんなんじゃないし。10代の頃は遊び仲間だったけど、普通の遊び仲間ではなく、お互い意識しつつ……なかなか一言では言い表せない。

―ライバル、という関係ですか?

藤井:ライバル関係……ではないと思います、実は。

―じゃあなんですか?

藤井:……腐れ縁?

―つまり友だちですか?

藤井:うん、広い意味ではそうかもしれないけど。うん。

―いつも藤井さんは森岡さんのことを話す時は憎まれ口を叩きますけど、藤井さんにとって森岡さんはどういう存在なんですか?

藤井:……ここ十何日でいろいろ考えてみたんですけど、一言で表すとするなら、「出来の悪い弟」というのが一番言い得て妙かなと。「めんどくせえ!」という。うん。なんの飾りも嘘もない表現はそれかな。

―その「出来の悪さ」とは、ふだん一緒に仕事をしている時に感じてたわけですか?

藤井:……あのう、人って亡くなるとアイコナイズされるじゃないですか。天才だっただの、人を愛する人だっただの、気遣いの人だっただの。でもおよそそういう評判とは180度違う人でしたね。フフフ(笑)。

―亡くなってから、彼の人柄の良さを語る人が多かったですけど。

藤井:人当たりは悪くないんですよ。でもその先のことを一切考えない。結局あの人って「me, me, me」なんです。自分が全てであって、そういう意味で気遣いなんて全然なかったですよ。

―なのであとで尻ぬぐいしなきゃいけない。

藤井:一緒にいる場合は。なので面倒くさい、「出来の悪い弟」だなと。

■弟って、可愛くなくても、いいところがなくても、弟だから(笑)。

―SOFT BALLET時代にはいろいろやり合ったと聞きますけど。

藤井:それもいろいろ伝聞として広がってますけど、「やり合って」はいないですね。「やった」けど(笑)。

―(笑)。

藤井:あの人、SOFT BALLET時代のことを回想して「フジマキ君とよく殴り合って」みたいに言いますけど、「殴り合った」記憶は一度もないんですよ。「殴った」ことはありますけど。フフフ(笑)。

―どういうシチュエーションで?

藤井:最初は……ライブのアレンジの締切があったんですけど、当日になってもなにもできてなくて、「やるって言ってたじゃねえかこのボケ」というのがまず1回。2回目は確か『INCUBATE』(1993年発売、SOFT BALLETの6枚目のアルバム)のマスタリングの時でしたけど、僕の曲を3db下げたいって言うんですよ。理由を訊くと、自分の曲より大きいのがイヤだ、みたいな話で。じゃ今から行くから待ってろ、と言ってバイクでビクタースタジオまで行って、パキッ!

―(笑)。3度目は……?

藤井:3度目は……SOFT BALLETの再結成の時(1995年解散、2002年再結成)ですね。ライブのトラックは全部僕が作ってたんですけど、「僕もやりたい、僕も作れる」と言い出して。「じゃあ任せた」と言って任せたのに、何か月も経って森岡がやってきて「できてないんだよ~」って言い出したんで、パチーン!(笑)

―1回目と3回目は同じ理由だったと。

藤井:そうですね(笑)。

―自分が悪かったって反省してるんですか。

藤井:どうなんですかねえ。それも僕にはよくわからないですね。そういう人だったんで、「出来の悪い弟」だなと。

―でも弟だから、可愛いし、いいところもある。

藤井:いや、弟って可愛くなくても、いいところがなくても、弟だから(笑)。

―楽しかった想い出とかないんですか?

藤井:それ訊かれると思って考えたんですけどね……ないんですよね(笑)。

―森岡さんはSOFT BALLETの長い下積み時代に初めてレコード会社から声がかかって、三人で肩を叩きながら涙涙で喜び合った、それがいい想い出だったと言ってますけど。

<(レコード会社の)方に声をかけていただいた時に、本当に心から「やってて良かったねぇ」って、ほんとに涙モノな感じでみんなで喜んで、肩を叩き合ったのを未だに覚えてます。苦節5年でね。あの気持ちはもう3人では味わえることはできないんだろうか、って思ったりとかするとけっこう寂しくなりますけど
(SOFT BALLET『INDEX』ライナー所収の森岡インタビューより / インタビュアー:小野島大)>

藤井:あ、それも大嘘ですね!

―(爆笑)。せっかくの美談なのに。

藤井:それはあの人の妄想ですね。その時僕はロンドンにいたから。だいたい僕が肩たたき合って涙ぐんだりすると思います?

―(笑)。だからいい話なんじゃないですか。

藤井:だからそれは森岡の妄想なんです!(キッパリ) 彼が人に話してる逸話はほとんど彼の脳内生成ですよ。そういう人なんで。そこが面倒くさいところでもあり、「バカヤロウ」という感じでもあるわけで。

■minus(-)で初めて声をかけた時、「僕もうダメなんだよ~」って言ってたぐらいですから。すごく元気にはなっていたと思いますよ。

―森岡さんの音楽的な良さってどこにあるんですか?

藤井:なんだろう……「ニューウェイブ感」?

―とは?

藤井:それが一番難しいんですけどね。哀愁がありつつポップ?

―そのポップセンスみたいなものは、藤井さんにはないものだった?

藤井:あの人のポップセンスって、手癖なんですよ。U2やDEPECHE MODEをパクったりもしてましたけど、あの人本来のポップはそういうものとも違う独特の手癖なんです。独特のコード感というか。

―それが森岡賢の個性。

藤井:個性なんですけど、最近はそこから逃れられないという苦しみがあったみたいですね。

―ああ、殻を破れない、ある種の壁にぶち当たっていた。

藤井:うん……それが悩み……というか僕がダメ出ししてたんですけどね。(森岡が曲を作ってくるたびに)「これ、SOFT BALLETの“PHOENIX”(の焼き直し)だよね」って言ったりとか。

―自分は遠藤遼一のようには歌えない、藤井麻輝のように完成度の高いサウンドも作れない、だから二人が必要なんだ、ということはおりに触れて言ってましたね。

藤井:……それ、唯一の本音かもしれないですね。

―前のCINRAのインタビュー(一度は音楽業界と決別した藤井麻輝、復帰後の怒濤の活動を語る)で、藤井さんは森岡さんのボーカルの技量不足を指摘してたでしょう。たぶん彼自身もそれはわかっていたと思う。でも彼は黒衣に徹することはできない人でしょう。常に真ん中にいて脚光を浴びていたい人だから、そういうギャップは感じてたかもしれない。

藤井:うん。僕は彼の歌はガンガン貶してたけど、そういうことを言えるのは、周りに僕しかいなかったと思うんですよ。彼はね、昔はすっごく歌が上手かったんです。まあ僕が18歳の時に聴いた印象だからかなり美化されてると思いますけど、イギリスのニューウェイブの雰囲気があった。彼はたぶんボーカリストとして(高橋)幸宏さんの影響をかなり受けていて、節回しとか、その印象が強いんです。なのでああいう風に歌えたらもっと幅が広がるのになあ、と思ってましたね。

―なるほど。そういう意味でも、彼はSOFT BALLET以降、自分の才能を生かし切れてなかった印象があります。彼の才能が全開になった作品というとなんだと思いますか。

藤井:『MILLION MIRRORS』(1992年発売、SOFT BALLETの5枚目のアルバム)とか『INCUBATE』(1993年)の頃……“PARADE”(『INCUBATE』収録)とか彼の最高傑作じゃないかな。彼の絶好調の時代だった気がします。

―ここ最近の彼についてはどういう印象がありますか?

藤井:音楽的にですか? ……なんとも言いようがないですけど……ただ音楽家に限らず、モノを作る人って必ず浮き沈みがあるんで……。

―でもminus(-)を始めてから、上向き傾向だったんじゃないですか?

藤井:それはあると思います。minus(-)で初めて声をかけた時、3年前の2月に会った時は、「僕もうダメなんだよ~」って言ってたぐらいですから。すごく元気にはなっていたと思いますよ。

―自信なくして落ち込んでる時に、自分が誰よりも信頼する昔からの仲間から必要とされた。すごく嬉しかったと思いますよ。

藤井:うーん、まあ腐れ縁ですからねえ。

―藤井さんも、ライブをやりたいと思った時に真っ先に頭に浮かんだのが森岡さんだったわけでしょう。

藤井:うん、それが超不思議なんですよね……。ほかの誰も浮かばずに、森岡賢だけが浮かんだから。僕がなんか適当なことをやって、森岡がひゅーひゅー言って踊っていれば成り立つ、と思える間柄であったことは確かなんでしょうね。

■遺影の前で手を合わせて、「大事な時になんてことしてくれたんだ」って。最後は「ちゃんとやっとくから」って。

―彼が亡くなったのを聞いたのはどういうタイミングだったんですか?

藤井:(6月)3日の昼かな。亡くなった直後ぐらいだと思うんですけど、僕は前の日遅くまでminus(-)のアルバムの作業してて、寝てまして。電話が何度も鳴って。見たら金光さん(マネージャー)で。最初は「なんの冗談?」と思ったんです。前日に森岡と電話で話してたんで。

―じゃあ死を予感させるような兆候はまったく……。

藤井:だって健康診断をしばらく前にやってて、「数値超正常!」とか浮かれてましたからね。てめえナニ健康なんだよ、みたいな。

―驚きのあとに来た感情はなんでしたか?

藤井:……「困った」。最初に浮かんだのがBLITZのことでしたね。ツアーのチケットも売り出してたし。自分が一緒に活動していた人が、こういう形で突然亡くなったのは初めてだったんで。どうすんだこれ、みたいな。

―うーん……。

藤井:僕ね、大脳辺縁系の振る舞いがちょっとおかしいのか、「悲しみ」という感情がないんです。両親が亡くなった時もそうだった。涙が出て号泣、みたいなことがない。なのでまず考えたのは、ライブどうしよう、困った、という。……うん。……冷たい、とか人非人、と思われるかもしれないけど、こればっかりは、そういう生理なんですよね。

―自分にとって本当に大事な人を亡くした時の感情は、一筋縄ではいかないものなのかもしれないですね。まして仕事で深く関わっていた相手だと、まずは現実に降りかかってくる問題に対処しなきゃいけないから。

藤井:……うん……。

―遠藤さんと一緒に森岡家にご焼香に行かれたんですよね。

藤井:遺影がminus(-)のアー写だったんです。その前で手を合わせて(内心で)罵詈雑言ですよ(苦笑)。大事な時になんてことしてくれたんだ、って。最後は「ちゃんとやっとくから」って。そう(内心で)呟いて。

―うん。

藤井:最近よく言うんですけど、「こんなに迷惑かけやがってバカヤロウ、死ねばいいのに。あ、死んでるのか」って(苦笑)。その繰り返し。

―遠藤さんはなにか言ってました?

藤井:遠藤は最近なぜか2回ぐらい電話かけてきて。「大丈夫?」って。

―あなたを気遣ってるということですか。

藤井:たぶん。別に嬉しくないですけど(苦笑)。

―でもこれで三人がまた一緒にやることは永遠に不可能になってしまいましたね。

藤井:(素っ気なく)もともとないですよ。僕が死んだら可能性あったかもしれないけど。

―えっ?

藤井:たぶん僕が一番嫌がってたから。森岡はもともとやりたがってたし。

―……そうですか。

藤井:でも……森岡のところに行くなら三人……というか僕と遠藤が揃って行きたい、という話はして。森岡の遺影の前で一瞬SOFT BALLETが復活しましたから。それでいいんじゃないですか。

―森岡さんを見送るなら遠藤さんと一緒がいい、と思ったわけですよね。

藤井:……うん。昔から(森岡の)お母さんも知ってるし、それは筋としてね。10代の頃からの長い付き合いだったから。

―友だちだもんね。

藤井:うん……まあ「だんご3兄弟」みたいなもんですかね(笑)。……でも罵詈雑言言えるのも、そういう関係じゃなきゃ言えないし。根本的なところで繋がりが深かった人だから。面倒くさいけど(苦笑)。

■本当に残念ですよね。僕、ヤル気満々だったんですよ。手応えもあった。

―これからminus(-)はどうなるんですか?

藤井:それもいろいろ考えてて。minus(-)の屋号はそのままににして続けるべきなのか、どうなのか。たとえば今後僕がminus(-)として一人で活動した場合、方向性は180度変わっちゃうと思うんですよ。それでも名前を残す方がいいのか。そのへんの整理は、実はまだできてないんです。

―minus(-)以外の藤井さんの活動というと、睡蓮、SCHAFTと、プロデュース業ということになりますが、ソロとかは……。

藤井:ソロは出したいですし、いろいろ作業はしてるんですけど、こうなるとちょっと出しづらい、今は。

―今出すといろいろ余計な意味づけがされそうですね。

藤井:うん。それも含めて「なにしとんじゃコラ」と(苦笑)。……本当に残念ですよね。minus(-)がいい感じで進んできてて……こう見えてもね、僕、ヤル気満々だったんですよ。手応えもあった。どんどん良くなってたんです。

―森岡さんもそれは感じてたわけですよね。

藤井:「SOFT BALLETを超えたいね」って言ってましたよ。だから本当にもったいない。「バカ野郎!」と言いたいですよ。

―2月の恵比寿LIQUIDROOMのライブもすごかったです。

藤井:僕の中で、minus(-)はライブごとに毎回アップデートしていくという取り決めがあったんです。LIQUIDROOMよりも、次のBLITZはもっといいだろうし。その次のRenyはもっと良くなるはずなんです。これで打ち止め、というのをしないのが僕の中の裏テーマみたいなものだった。来年、六本木EX THEATERでやる構想もあったんですよ。いい感じでグングン上がってきてた。せめて、EX THEATERまでやりたかった。

―サウンド面だけでいえば、藤井さんだけでもアップデートはできるわけですよね。

藤井:パフォーマーがいないですからね。役割分担というものがあって、minus(-)では僕が真っ黒な格好して後ろに隠れてても成立するんですよ。あの人が真ん中で「フー!」とか言ったりクネクネしてくれたからこそ、僕は黒衣に徹することができた。それはminus(-)をやる上での僕の役割だった。まあ、ほかの実務はクソ面倒くさかったですけど、ステージ上では仏頂面をしつつ楽しめたし。

―ステージ上の二人のボケとツッコミみたいなやりとりも楽しかったです。

藤井:そういうことができるのは、確かにminus(-)しかなかったですね。なんだかんだ言って本当に、面倒くさいとか言いながら、minus(-)の活動は楽しめましたから。

―彼に代わる人材がいるわけじゃないしね。

藤井:うん。人材なのか「人害」なのかわかんないですけどね(笑)。そういうのも含めて「出来の悪い弟」ですよ。唯一無二の。良しにつけ悪しきにつけ、森岡賢は森岡賢でしたね、最後まで。

―彼の不在を感じることはありますか。日常暮らしていて。

藤井:……今のところないんですよね。毎日作業で森岡の声を聴いてるのもあるけど。

―なるほど。

藤井:……3日以降、毎日飲んでるんですけど、酒量が増えてるのはそれを感じてるからかもしれないですけどね。

―私は森岡さんの死を聞かされたその日に仕事でライブを観なきゃいけなくて、すごくしんどかったんですけど、ライブを観るうちに少し気が楽になったんですよ。そのアーティストはこっちの事情なんて知るよしもないのに、でもこっちの心に寄り添ってくれた気がして。でもそれが音楽の役割なのかと思いました。

藤井:うん、音楽っていろんな心のトリガーを引いてくれるんですよね。僕も今『O』を作ってますけど、みんなが聴いて「良かったな」と思ってくれればいいかなと。

―じゃあアルバムとライブ、楽しみにしてます。「楽しみにしてる」という言い方が適当かどうかわからないけど。

藤井:いやいや、楽しみにしてください。(中空を指さして)ここらへんできっと、見てますから。

CINRA.NET

最終更新:7月11日(月)21時20分

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