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興梠激白!リオ五輪OA参戦の裏とその素顔

東スポWeb 7月14日(木)10時2分配信

 リオデジャネイロ五輪サッカー男子代表のFW興梠慎三(29=浦和)は、代表の主要な国際大会とは縁のなかった実力派ストライカーだ。手倉森誠監督(48)に見初められ、24歳以上のオーバーエージ(OA)枠でリオ行きを決めた興梠が、五輪参戦を決意するまでの舞台裏と、これまでのサッカー人生を赤裸々に語った。

 ――リオ五輪のOA選出で悩んだ

 興梠:自分が抜けて、チーム(浦和)が勝てなくなるとは思わなかったです。何が一番怖いかというと、自分がいなくなって、代わりの選手が結果を残して、居場所(ポジション)がなくなるのが怖かった。そういう部分で「どうしよう」という迷いはありました。一つチャンスを与えれば、逆転されてしまう選手は、たくさんいるんで。

 ――最終決断した理由の一つには手倉森監督の存在がある

 興梠:何度かプライベートで食事したりしていました。当時は仙台の監督をやっていて「いつかは一緒にやりたいね」と言われていましたけど、まさかこうやって一緒にできるとは思っていなかったし、テグさんだから行こうと決断できました。指揮官の魅力? 人間的にハナマルですね。この人についていきたいと思えるし、何より一緒にいて楽しい。考え方が好きです。

 ――母校の鵬翔高校(宮崎)サッカー部の松崎博美総監督に相談した

 興梠:最初は「(OAを)断ろうと思っている」と伝えて、怒られました(笑い)。鹿島の2年目のときにメッシーナ(イタリア)から「来ないか」と言われたことがあって、その時も監督から「なんで行かないんだ。成長には、いい経験だぞ」と言われたのに、断っているんで…。今回は「そういうチャンスを断るな。宮崎を盛り上げるために、お前には出てほしい」と言われて、考え方が変わったかなという感じはします。

 ――松崎氏との出会いで人生も変わった

 興梠:僕の小学校時代のプレーを知っていた松崎監督が「サッカーするなら(鵬翔高に)入れてやる」と。条件付きで入ったんですけど、僕はすぐにサッカーをやめようとしたんです。そうしたら「学校もやめろ」と…。1か月くらい考えていたら、監督が連絡してきて「お前は、しっかりやればプロになれるぞ」って言われた。プロとかどうでもいいのになって思いつつ、部活に行くようになりました。そこからは完璧に(サッカーに)目覚めましたね。

 ――サッカーは、あまり好きではなかった

 興梠:サッカーの知識は全然なかったし、カズさん(元日本代表FW三浦知良=49、J2横浜FC)のことすら知らなかった。野球くらいしか…。巨人ファン? 地味ですけど、川相(昌弘=51、現巨人三軍監督)選手が好きでした。バントの達人なんで。生まれ変わるならサッカー選手になりたくない。ゴルフしたいです。趣味がサッカーで、ゴルフが本業…というのは冗談ですが(笑い)、そのくらい好きですね。

 ――引退したらプロゴルファーを目指すのか

 興梠:そんなに甘いもんじゃないですよ。でもゴルフは延々と続けていきそうな気がします。健康にもいいんで。

 ――プレーで影響を受けたサッカー選手は

 興梠:自分の中で師匠と思っているのはヤナさん(元日本代表FW柳沢敦=39、現鹿島コーチ)ですかね。体も(自分と同じで)そんなにデカくないし、ポストプレーもうまい。見習うところは、たくさんありますね。(アドバイスを)聞くことも負けた気になるというか…。だから練習を見て学びました。動きだしは勉強になりました。

 ――初の大舞台となるリオ五輪に向け

 興梠:自分がどこまで通用するのかは楽しみですけど…これをきっかけにA代表(定着)や海外でプレーするとかは考えていないんで。チームに貢献することと、若い選手にのびのびとプレーしてもらえるようにサポートできればいいという考えでいます。

 ☆こうろき・しんぞう 1986年7月31日生まれ。宮崎県出身。小学生でサッカーを始め、地元の鵬翔高校に進学すると才能が開花。U―18など年代別の代表で活躍し、2005年にJ1鹿島に入団した。08年に日本代表に初選出。同10月の国際親善試合UAE戦で代表デビューした。国際Aマッチ16試合0得点。家族は夫人と1女。175センチ、72キロ。

最終更新:7月14日(木)10時9分

東スポWeb

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