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ロッテのレジェンド、「オレたちの福浦」が歩んできた果てしなき道のり

Full-Count 7/17(日) 12:05配信

誰よりもマリンを知り、マリンから愛される男

 その名前がコールされると、大きな声援が沸き起こった。前半戦最終戦となった7月13日の福岡ソフトバンクホークス戦。1軍昇格したばかりの福浦和也内野手が代打で登場し、今季初めて1軍の打席に立った。

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 8回2死一塁。ホークス先発の千賀投手のストレートをはじき返した打球は中飛に終わったが、スタンドからは拍手が沸き起こった。「オレたちの福浦」と誰よりもファンから愛される男の新たな一歩が始まった。

 そして、この試合出場は記念すべき、本拠地QVCマリンフィールドでの通算1000試合出場となった。歴代の名選手たちでは、堀幸一現1軍打撃コーチが863試合出場。初芝清氏が669試合出場。現役ではサブロー外野手が843試合出場。誰よりもマリンを知り、マリンから愛される男の証となる数字だ。

「それは知らなかったなあ。そんなになるのかあ。これだけ、やっていると、そうなるよね」

 すべてのスタートとなったマリンでの初出場は1997年7月5日のオリックス戦。1996年6月に立川隆史外野手(現解説者)、1997年6月に大塚明外野手(現2軍外野・守備走塁コーチ)と次々と同じ年で同期入団の選手が1軍に呼ばれ、プロ初ヒットを打つなど結果を出していく中でようやく巡ってきたチャンスだった。

 何かあるたびに、「1軍は凄いぞ」と2人から話を聞き、刺激を受けていた。「次はオレが……」との思いを強くした。しかし、駆り立てられる思いがあっても、1軍首脳から声がかからないと始まらない。必死にバットを振り、いつ呼ばれてもいいようにと準備を繰り返す我慢の日々を過ごした。

プロ野球選手失格だと涙した1年目、「すぐにクビになると思った」

「明日から1軍だ」。秋田遠征中の1997年7月4日の夜。急な招集がかかった。その夜は興奮のあまり、眠りに就くことができなかった。だから、ホテルの自室でひたすらバットを振った。後日、同部屋だった後輩選手から「あの時は素振りの音が聞こえていて、寝られなかった。でも、邪魔をしてはいけないと、ひたすら寝たふりをしていた」と聞かされた。今となっては笑い話だが、当日はそれほど興奮をしていた。

 14時開始のデーゲームに間に合わせるため、秋田からの早朝の飛行機に飛び乗っての当日移動。打撃練習が終わりかけた頃にマリンに到着した。そして、まさかのスタメンを言い渡された。

「家族を呼ぼうにも急だった。だから誰も見に来ていない」

「7番・一塁」でスタメン出場。4回にはフレイザー投手から初ヒットを放った。インコースのスライダーにドン詰まりした当たりはポトリとセンター前に落ちた。記念すべき1軍でのプロ初ヒットだった。2000本安打を目前に控える男の伝説はまさにここから始まった。

「まさかね。あそこからここまで来るとはね。本当に思ってもいないよ。毎日が必死。一日でも長く、悔いのないように野球をやりたいという思いだけ。本当に毎日が、ガムシャラで、この世界で生き残るのに必死だった」

 18歳の頃は背番号「70」の細身のピッチャー。ドラフトでの指名は最後の7位。2軍の練習についていけずにグラウンドで課せられたランニングでは1周遅れ、2周遅れになった。そして暑さに耐え切れず毎日のように倒れてはベンチ裏で嘔吐を繰り返した。悩んで病院に行ったこともあった。医者には「鉄分不足ですね」と告げられた。プロ野球選手失格だと、情けなくなり、涙しながら帰路についたのは、もう遠い過去の話だ。

「これは無理だなって。すぐにクビになると思った。でも追い込まれていたからこそ、悔いが残らないように練習をしようと必死になった。だから投手から野手転向を勧められた時も、悔いが残らないようにチャレンジしようと切り替えることができた」

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最終更新:7/17(日) 12:05

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