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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓古代史が面白い」渡来人の足跡(中編)

WoW!Korea 7月19日(火)23時50分配信

渡来人の中で、関東の開発に貢献したのが若光(じゃくこう)である。彼は高句麗の王族で、666年に来日した。当時、新羅と唐の連合軍が高句麗を攻めていた。若光は日本に援軍を要請しに来たのであった。


■帰る母国がなくなった

 必死の思いで若光は来日したのだが、日本の朝廷は高句麗の依頼に応じなかった。663年に白村江の戦いで大敗して、新羅・唐と関わるのはもうコリゴリだった。

 若光が日本で失意の日々を過ごしている間に、高句麗は668年に滅んでしまった。若光は母国を失ったのである。

 多くの高句麗人が難民となって日本に押し寄せてきた。若光にはもう帰るところがないので、彼は日本で骨を埋める覚悟を決めた。

 よほど才能に恵まれていたのだろう。高句麗の王族ということで出自も良かった。若光は朝廷の中で出世していった。

 703年には、従五位下の官位を受け、外国の王族出身者に授けられる「王(こしき)」の姓(かばね)を賜った。


■大磯に上陸した若光

 当時の朝廷の懸案事項は、東国の開発だった。目をかけられたのが若光だった。

「高句麗の民を束ねて東国に向かってくれないか。開拓した土地はみんな君たちのものになる」

 朝廷からこんな申し出を受けたことだろう。若光は高句麗の出身者たちを連れて船で東に向かい、海岸線に沿ってゆっくり進んで上陸の適地を探した。

 船は伊豆半島をグルリとまわって相模湾に出た。

「ここがいい。上陸の準備をせよ」

 若光が命令して船を停めたのが大磯だった。

 若光に率いられた一派はまず大磯に定住し、そこから相模一円に広がっていった。
 今の『大磯町史』はこう書いている。

「若光が後代に神と崇められるほど、渡来した高句麗人の拠り所となる人物であったこと、彼を慕う高句麗人が相模国では多く大磯の地に居住していたこと……などは史実と見なしてよいであろう」

 大磯で若光が住んだと推定される場所が現在の化粧坂である。現在の地名も「高麗」になっている。古代の日本では高句麗のことは高麗と呼ばれていたが、その名称が地名に残っているのだ。


■相模国には渡来系の神社が多い

 他にも、大磯には高麗とつく名称がある。

 化粧坂の北側に隆起している高麗山がそうだ。

 標高167メートル。お椀をひっくりかえしたような形をしている。

 その高麗山のふもとに位置しているのが高来(たかく)神社である。

 かつては高麗寺と呼ばれた。

 鎌倉時代には、源頼朝の夫人であった政子が安産の祈願をするほどの大寺だった。

 江戸時代も格式の高さを誇ったが、明治維新後の神仏分離政策(王政復古と祭政一致を推し進めるために各地の仏堂や仏像を破壊した政策)によって、高麗寺も仏教寺院としての存続が不可能となった。

 やむなく、高麗神社に変わってかろうじて生き残った。その後には「高麗」という漢字も敬遠されて、高来神社に名を変えている。

 この他にも、相模国(現在の神奈川県)には渡来系の神社が多い。

 箱根町の駒形神社、
 小田原市の白髭神社、
 秦野市の加羅古神社、
 平塚市の駒形神社など。

 それらは若光とその一派が相模国で幅広く活動した名残と見ることができる。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉 発行/勉誠出版)
(ロコレ提供)

最終更新:7月19日(火)23時50分

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