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内側から見た祭祀 宮古島6月ニガイ 写真家・長崎健一

沖縄タイムス 7月21日(木)12時52分配信

 宮古島市西原にはナナムイと呼ばれる祭祀(さいし)組織があり、ナナムイニガイの中のひとつに6月ニガイと呼ばれる祭祀がある。地元西原では、「ワークラスカンニガイ」とも言い、旧暦の6月に海の神様に豚を犠牲としてささげ、集落の人々の五穀豊穣(ほうじょう)、無病息災を祈る神聖な祭祀である。
 私は、地元宮古島の祭祀を2007年から撮影しているが、とりわけ6月ニガイには、忘れられない思い出がある。
 初めて6月ニガイに参加した2008年の時のことである。朝からナナムイオバーたちと御嶽まわりをし、神々に祈りをささげた後、祭祀を行う場所で、オジイたちを迎え入れ、準備が整った。これから犠牲となる豚を海へ沈める時、私も思わずカメラを構える手に力が入った。その瞬間「ケンイチ、ハズンガカツミーユキ」(宮古島の方言で「足を捕まえておけ」の意)と集落のおじさんから声がかかった。
 内心「マサカヨ、今この瞬間の写真を撮りにきているんだけど」と思ってみたところで、特に祭祀の現場では、地元共同体の上下関係は絶対である。スジャ(年上)の言葉にウットゥ(年下)は従わねばならない。手伝わないわけにはいかないのだ。地元の祭祀を撮るための通過儀礼と思い手伝いをして、結局1枚も写真が撮れなかったことを今も覚えている。しかし、この出来事が私にとって、祭祀を撮ることがどういうことかを考えさせられるきっかけとなった。
 地元の祭祀の現場で、私はカメラマンではなく、祭祀の手伝いをする地元の青年、ある意味当事者として現場に立たされていた。写真は、撮る側と撮られる側が存在する。その関係性は、写真に写っているもの以上に大切な場合がある。表現という名の下に、撮る側の意識で作り上げる写真ではなく、内側から捉える祭祀の写真を撮ろうと心に決めた。
 あの現場、あの瞬間に「僕はカメラマン」という自意識で、カメラを手放さないでいたら、「写真をどうみせるのか」と、そればかりにとらわれて、写真の背後に流れる「被写体との関係性、写真がどう存在しているのか」に意識を向けられないでいたかもしれない。カメラを捨てて初めて、写真を撮るうえで大切なモノが少しだけ見えたような気がした祭祀であった。
 今、最も重要な問題は、神役の後継者が減少している事実にある。現代の暮らしの中では、祭祀の必然性を見いだすことが難しくなってきているのだ。その事実に写真家としてどのように向き合っていくべきなのか自問した。
 失われていく世界に最後の光をあてるようなノスタルジーとしてとらえるのではなく、共同体がこれまで祭祀を通して大切にしてきた精神性が今後どこへ向かうのかを、地元に暮らす人々とともに考えながらこれからも写真を撮っていきたい。(写真家)
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 「2016年・沖縄写真まぶいぐみ連続写真展vol.4 花城太&長崎健一」は23日から31日まで、沖縄市中央のギャラリーラファイエットで。31日は午後2時からギャラリートーク&ディスカッション。問い合わせは同ギャラリー、電話070(5691)9008。

最終更新:7月21日(木)16時48分

沖縄タイムス