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狩野派への意識強く 絵師・河鍋暁斎

北日本新聞 7月22日(金)21時21分配信

 絵師、河鍋暁斎(きょうさい)はうまい。そして面白い。その「うまい」を下支えしたのは、日本絵画史上、最も大きな勢力を誇った画派「狩野派」に学んだ技術だった。世相を切った浮世絵で人気を博しながらも、晩年には再び狩野派に再入門している。「奇想の絵師」と呼ばれ、県水墨美術館の企画展で現在、多彩な作品が紹介されている暁斎は、最期まで狩野派の絵師であろうとしていた。(文化部・田尻秀幸)

 「反骨の画家」「妖怪絵師」「画鬼」-。河鍋暁斎には、迫力のある異名が幾つか与えられている。しかし、埼玉県蕨(わらび)市の住宅街にある河鍋暁斎記念美術館の玄関に掲げられたあいさつ文は、思いのほかシンプルな言葉で暁斎を紹介している。

 「幕末明治期に活躍した狩野派絵師」

 暁斎のひ孫で美術館を建てた館長の河鍋楠美(くすみ)さんに尋ねると「当たり前」と断言する。楠美さんの祖母、つまりは暁斎の娘で日本画家の河鍋暁翠(きょうすい)は弟子に「流派を聞かれたらどうしましょう」と尋ねられると「狩野派だと答えなさい」と命じたという。「今じゃ暁斎は浮世絵師って言う人もいるけど、うちでは狩野派の絵師。『描いて』と頼まれたら何でも描く人だから仕方ないけど」と笑う。

■型の継承
 狩野派は室町から明治に到るまでの約400年間活躍した絵師の集団。血脈でつながった狩野家を中心に常に時の権力者に仕えてきた。足利家の御用絵師となった狩野正信が祖。将軍家だけでなく、寺僧らの注文を受け、障壁画などを制作した。

 その子である元信は、需要が増えてくると、画題を分類し、門弟に学ばせる工房制作のシステムを作った。その後も画壇の中央に君臨するため、狩野派は権力のすう勢を敏感に受け止め、新たな権力者の元に力のある絵師を次々と送り込んだ。

 特徴は型の継承。「臨写に始まり臨写に終わる」とされるほど、絵手本や先人の下絵を写し取ることにこだわった。技術を均一に保ち、御殿の障壁画など大規模な絵を共同制作するためだった。

■10歳と54歳
 10歳で狩野派に入門した暁斎も徹底した摸写を通じ、絵の基本を体得した。県水墨美術館で開催中の企画展「鬼才-河鍋暁斎展 幕末と明治を生きた絵師」に展示されている「毘沙門天之図(びしゃもんてんのず)」は、暁斎が19歳で修業を終える前に手掛けた作品だ。毘沙門天は狩野派で必須の題材で、手本に沿って描いたものとみられる。迷いのない線と鮮やかな彩色からは、早熟の才能をうかがわせる。

 萬(よろず)美術屋を名乗り、美術展の企画を担う安村敏信さん(富山市出身)は暁斎の線に狩野派らしさをみる。「暁斎はさまざまな線を使い分けるが、1本の線の中で太さを自在に変化させる『肥痩(ひそう)線』はいかにも狩野派っぽい。狩野派自体が末期には失っていた線の力強さを暁斎は保ち続けた」と言う。企画展会場にも並ぶ「鍾馗二(しょうきに)鬼図(おにず)」は特にその肥痩線が冴(さ)える。

 明治になって狩野派は江戸幕府という後ろ盾を失い、力を保てなくなる。長く安定していた江戸時代からの変化には対応できなかった。次々と狩野派の絵師が落ちぶれる中、売れっ子であり続けたのが暁斎だった。幼少時に浮世絵師の歌川国芳に学び、浮世絵にも通じていた。研究熱心でさまざまな画派の技術も吸収し、狩野派の看板がなくても自立できていた。

 それでも晩年の54歳に狩野派宗家に再び入門し、学び直している。駿河台狩野家の最後の当主に懇願されたという逸話も残っている。「暁斎は伝統墨守の画家。それまでの技法の可能性を追求した人なので、狩野派の歴史を守ることに並々ならぬ思いがあった。再入門は心意気の表れ」と安村さん。

 暁斎は古画の模写やスケッチを画帖にまとめ、狩野派再興に向けて資料を充実させていたが、59歳で死ぬ。胃がんだった。県水墨美術館の桐井昇子主任学芸員は「健康であれば狩野派という基本に立ち返ることで新たな傑作が生まれていたかもしれない。59歳で逝くのは早かった」と惜しむ。

北日本新聞社

最終更新:7月22日(金)21時21分

北日本新聞