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元同僚・小早川幸二氏が明かす「黒田快挙の原動力は反骨心」

東スポWeb 7月25日(月)16時57分配信

 広島・黒田博樹投手(41)が23日の阪神戦(マツダ)で日米通算200勝を達成した。日米通算ではドジャースなどで活躍した野茂英雄氏(47)に続いて2人目の快挙。球団での200勝達成は北別府学氏(59)以来2人目となった。

 今や球界のレジェンドとしてさんぜんと輝く黒田だが、決してエリート街道を歩いてきたわけではない。元プロ野球選手を父に持つ親子鷹ながら、通ってきたのは裏街道。挫折や苦しさも人並み以上に味わってきた。そんなベテラン右腕の生きざまを元広島のチームメートで、黒田の親友でもある小早川幸二氏(45)が語った。

 1996年のドラフト2位で入団してきた黒田は、大阪弁を操る、明るくて面白い男という印象でした。もちろん本質的な部分は今も変わりません。ただ、最近はそういう姿を表に出さなくなった。理由は入団当時とは比較にならないほど“背負うもの”が増えたからでしょう。

 振り返ってみると、若いころから慎重な面はありました。記者さんの中にも黒田の取材にてこずっている方は少なくないと思いますが、来る者拒まずというタイプではありませんからね。チヤホヤされて落とし穴にはまる選手は多いけど、それが黒田にはなかった。

 彼を突き動かしてきた原動力は「見返してやる」という反骨心だったと思います。お父さんの一博さん(故人)は南海などで活躍したプロ野球選手で、いわゆる親子鷹でした。しかし、エリートというわけではなく、上宮高時代は控え投手で専大でも東都の1部に昇格したのは4年春。プロ入りもドラフト2位で、1位の沢崎(現二軍投手コーチ)が新人王に輝いたのとは対照的に、入団当初は二軍でボコボコに打たれることもありました。

 そこから「見返してやる」という一心でカープのエースとなったわけですが、メジャーでそのまま通用したわけではありません。日本では強打者を抑えられたボールがコースに決まっても、フェンスオーバーされてしまう。

 黒田も人間ですから、打たれればヘコみます。メジャー時代のシーズン中のやりとりはメールがメーンでしたが、文面から落ち込んでいる様子が分かるんです。そんなときは「球審のジャッジがひどかった」「打った打者がすごすぎた」などと励ましていました。そんな壁を乗り越えるために手にしたのが、今も武器になっているツーシームです。

 メジャーでは投球の幅だけでなく、人間的にも成長したと思います。僕も台湾でプレーした経験があるので多少なりとも分かりますが、言葉の通じない国では寂しい思いをするものです。きっと黒田も話せる喜びや友達の大切さを改めて学んだのではないでしょうか。ドジャースのエースとなり、3度のサイ・ヤング賞にも輝いたカーショーが慕ったのは、そんな人間性を尊敬していたからでしょう。カープの若手投手が成長著しいのも、黒田という最高のお手本が身近にいるからです。

 最近は「疲れた」「しんどい」が口癖のようになっていますが、カープで優勝を――という思いは誰よりも強いと思います。5月に右肩の不安から首脳陣の配慮もあって出場選手登録を抹消されたときも、本人は投げたがっていましたからね。登板間隔を空けることで「気持ちが切れてしまうんじゃないか」という不安もあるのでしょう。

 おそらく黒田は今回の日米通算200勝にさほど興味を持っていないと思います。やり残したことがあるとすれば、カープで優勝することだけ。OBとして、友として、ぜひ実現してほしいと思います。 (元広島投手)

 ☆こばやかわ・こうじ 1970年12月1日生まれ。広島県出身。西条農高を経て1988年のドラフト外でダイエー(現ソフトバンク)に入団。90年オフにトレードで中日に移籍。一軍出場がないまま92年オフに広島へトレードで移籍し、主に中継ぎで活躍。96年には46試合に登板し、97年には生涯一度の先発登板も果たした。98年に自由契約。99年は台湾でプレーし、その年限りで現役引退。その後はビジネスの世界に転身し、現在は通信工事や電気工事などを手がける「�K―アシスト」の代表取締役社長。

最終更新:7月25日(月)16時57分

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