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《白球の詩》父の思い胸に全力 樹徳・田口敦也外野手

上毛新聞 7月25日(月)6時0分配信

◎親子で目指した甲子園

 父親似のたれ目がみるみるゆがんでいった。「最後の最後で仕事ができなかった。自分が流れを持ってこられなかったから…。悔しいっすね」。強力打線のリードオフマンは、3打数無安打の結果にベンチ裏で自分を責めた。

 1年の秋から1番センターを任された。背番号「8」を譲ったことは一度もない。50メートル5秒9の俊足が光る、走攻守三拍子そろい、木村喜文監督も「守備範囲が広くて、打つのもうまい。野球をよく知っている選手」と評価する。

 生まれ持った才能ではない。小学生の頃は「普通の子」で、運動会の徒競走はいつも後ろ。「足は遅かった」と、最初に野球を教えた父の裕さん(42)は思い返す。

 裕さんも高校時代は樹徳の野球部で、2年連続甲子園の切符をつかんだ。3年時の群馬大会は20人の登録メンバーに入ったが、甲子園では背番号をもらえなかった。部員100人超の大所帯でレギュラー入りは難しいことを体験している。「息子に同じ思いをさせたくなかった。だから、小学生のころから一緒に高校野球を目指してやってきました」

 少年野球の練習がない平日は2人で近所のグラウンドに向かった。野球やランニングの教室にも通い、専門的な指導も受けた。オーバーワークによるけがには細心の注意を払い、「タイミングの取り方とか、神経を発達させること、体の軸をつくるための体幹トレーニングを中心」(裕さん)として計画的に練習した。

 小中学校時代にバランスよく鍛えた体は、高校入学後もけがが少なく、順調に力を伸ばすために役だった。「実力のなかった自分が成長できたのは、お父さんとの積み重ねがあったおかげ」とためらいなく言える。

 レギュラーをつかんだ息子に、裕さんは忘れてほしくなかったことがある。「悔しい気持ち
を抑えてスタンドから応援する部員がいること」「その仲間たちの分まで、最後まで諦めず戦うこと」の二つ。

 最後の試合は打撃で応えられなかったものの、守備では好プレーを見せた。初回に左中間の大きな打球をジャンピングキャッチ。九回表には中前打を本塁へ好返球し、2走の生還を許さなかった。

 九回裏の攻撃。打順が回ってくるのはまだ先だったが、ベンチに戻るとヘルメットをかぶり、記録員の隣に座った。「1番としてどんなときも自分は塁に出ないと駄目。いつもスコアを見て、どうすればいいのか考える。打つか、セーフティーか、待って四球を選ぶのか」。諦めず、自分の役割をチームのために果たしたいと思っていた。

 「(自分が)打ってチャンスメークしたい」。ベンチで立ち上がり、祈るように指を組んで、仲間に声援を送った。しかし、打席に立つことはかなわなかった。

 「お父さんの分まで甲子園でプレーする」夢は途絶えたが、父の願いと思いに少しは応えられたのではないかと感じている。

 試合を見守った裕さんは「お疲れさま。楽しませてくれてありがとう」と球場を後にする息子に向けて言った。(越谷奈都美)

最終更新:7月25日(月)7時38分

上毛新聞