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「記憶つなぐ とやま戦後71年」大空襲、亡き母克明に

北日本新聞 8月1日(月)0時45分配信

■50年前の手記を大切に保管/富山の小中さん

 富山市五艘の主婦、小中輝子さん(84)は、亡き母が約50年前に富山大空襲の体験をつづった未発表の手記を大切に保管している。焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ中、子ども3人を連れ、神通川に漬かって生き延びた状況が克明に記されている。きょう1日深夜は大空襲から71年になる。あの夜を体験した輝子さんは「空襲がどんなものかを若い人に知ってもらいたい」と語る。

 母の星川緑子さん(1910-89年)は趣味で短歌を詠み、文章を書くことも好きだった。手記は1968年、58歳の時のもの。晩年を過ごした居宅が昨年末、取り壊されることになり、輝子さんが遺品を整理していて見つけた。

 手記は、45年8月1日夜~2日朝の出来事が書かれている。緑子さんと夫の清敏さん(故人)、輝子さん(当時13歳)、淳さん(同11歳、故人)、紀子さん(同9歳)の一家は神通川右岸の安野屋町に住んでいた。清敏さんは疎開準備で上市町に出掛けており、不在だった。

 手記によると、1日夜、緑子さんは空襲警報の解除を受けて庭の防空壕(ごう)から出た。眠れない夜。きれいな空気を吸いに、子ども3人を連れて神通川に架かる聯隊(れんたい)橋(旧富山大橋)へと歩いた。その道中、急に焼夷弾が「バラバラとあられの様に」降ってきた。

 緑子さんは子どもたちの手を握り土手へ走った。振り返ると街は火の海。河原では草に付いた火が燃え広がり、慌てて川に飛び込んだ。近くでは、頭に直撃弾を受けた人が動かなくなっていた。泣きそうな子どもたちを抱きしめ、川に浸ってうずくまった。


 この小さい子達に何の罪があらうか。どうしてこんなこんな目にあわなければならないのかと、ふっと思ふ。(中略)川の上面はお湯なのに、すごく冷(つめた)い。流れてくる油の火を体につかない様に手で押しやり乍(なが)ら、やけどさせまいと一生懸命になる。之(これ)がこの世の地獄なのか。涙も出ない。


 「油」は焼夷弾の油脂。川の深みに入った人は流されていった。長い時間続いた爆撃音と悲鳴が収まり、川から上がると、土手の桜並木の下におびただしい数の遺体が並んでいた。

 富山大空襲の死者は2700人以上。緑子さん一家は助かったが、淳さんがやけどを負った。緑子さんはそれを悔やみ、短歌を残している。


 わが胸の今も痛みぬ焼夷弾のやけどのあとが子にのこりゐて


 手記を読んだ輝子さんは「母の優しさと、子どもを助けたい一心で逃げ惑った親の悲しみが表れている」と話す。

 手記の序章には、空襲に見舞われる前の神通川の四季折々の情景がつづられている。


 真夏の日の光にてらされて濤々(とうとう)と流れる河の水も金色(こんじき)にまばゆい。近所のおばあさんが手を合わせて拝んで居られる。平和な、ほんとうに平和な頃(ころ)であった。


 穏やかな情景は、一夜にして修羅場に変貌した。手記は、深い悲しみと戦争の不条理に対する静かな怒りに満ちている。輝子さんは「母の思いを埋もれさせたくない。空襲を知らない人に伝えたい」と語った。(社会部・荒木佑子)

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 「記憶つなぐ とやま戦後71年」は、戦争の悲劇を風化させず、後世へ伝えていくため、県内の戦争体験者や遺族らの記憶を紹介します。随時掲載します。

北日本新聞社

最終更新:8月2日(火)1時2分

北日本新聞