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多くの人に尊敬されている、大横綱・千代の富士が残した“遺言”

ITmedia ビジネスオンライン 8月2日(火)11時49分配信

 巨星堕つ――。

 大相撲の第58代横綱で元千代の富士の九重親方が7月31日、すい臓がんのため息を引き取った。身長183センチ、体重120キロ台の小兵ながらも筋骨隆々で、しかも「イケメン」。昭和50年代後半、そんな現役時代の横綱・千代の富士に胸を躍らせた人は相撲ファンならずとも多いはずだ。

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 左前褌(ひだりまえみつ)を取ってからの速攻相撲を得意とする激しい攻めで自分よりも大きな体格の力士たちを次々となぎ倒す。凄(すさ)まじい眼光で相手を睨む姿から「ウルフ」の愛称が付けられ、その惚れ惚れするような格好良さには女性だけでなく多くの男性も憧れた。

 歴代2位の通算1045勝、そして53連勝と幕内優勝31回は歴代3位。こうした数々の記録と偉業を成し遂げた功績が大きく評価されて1989年、相撲界としては初の国民栄誉賞受賞者となった。筆者のような昭和世代であれば、改めてこの「昭和最後の大横綱」の経歴を振り返るまでもあるまい。しかし平成世代には横綱千代の富士の取り口をリアルタイムで目にできず、どれだけ強い力士であったかを知らない人たちがおそらく大半だと思う。

 とにかく努力を怠らない力士だった。1975年9月場所にはスピード出世で新入幕を果たしたものの、その後は定着できずに十両どころか幕下まで一気に陥落。力士生命を脅かす両肩の脱臼癖が深刻化し始めたのは当時のことであった。

 もともと人間の肩関節の形成部分には肩甲骨と上腕骨の表面にクッションの働きをする軟骨がある。しかしながら千代の富士の肩関節は噛み合わせが悪く軟骨も薄いことから脱臼を引き起こしやすかった。並の人間ならば、ここであっさり諦めても不思議はない大きな挫折。しかし千代の富士は負けなかった。克服するため、当時の相撲界としては馴染みの薄かった筋力トレーニングをいち早く取り入れて肉体改造に着手。腕立て伏せも毎日500回以上、繰り返し行った。

●ただひたすら黙々と汗を流し続けた

 オレは是が非でも脱臼なんかに負けず、横綱として頂点に立ってやる――。そう自分に日々言い聞かせ、千代の富士はただひたすら黙々と汗を流し続けたという。後の全盛時に体脂肪率は10.3%。力士としては驚異的な数値を記録する均整の取れた彫刻のような鋼の肉体は、こうした本人の死に物狂いの努力によって作られていったのである。

 伸び悩んでいたころには主に相手を強引に引っ張り込んで力任せに投げ飛ばすなど軽量の体には明らかに負担のかかりそうな荒々しい戦法が目立っていた。しかし、その取り口も熟考と研究を重ねて徐々に変えていった。自らが小さな体格であることを考え、前まわしを引きながら頭をつけるスタイルを完成させ、脱臼克服の大きなプラス材料につなげた。

 脱臼克服を念頭に置きながら筋力アップを図ったことで、「取り組みに臨む前からまわしを緩まぬようにキッチリ締め上げ、ガッチリと四つに組んで相手の指がまわしにかかっても鍛え上げた強い筋力を生かしながら腰のひと振りで払いのける」「まるで短距離選手のスタートダッシュのような素早い立ち合いから、鍛え抜かれた腕力でまわしを引き付けて自分より重い相手の腰も“一気の力”で浮かせる」「相手の頭を押さえつけながら上手投げで投げ飛ばす“ウルフスペシャル”をここぞという場面で繰り出す」などのように戦法を徐々にマイナーチェンジしていった。

 「脱臼と向き合って肉体改造を行い、相撲のスタイルも変え、さらに頭を使いながら取り組みに臨むようになった。この流れこそが大横綱千代の富士を作り上げたのだ。つまり脱臼がなかったら、おそらく彼は短命力士で終わっていた」とは師匠で現相撲解説者・北の富士氏の言葉である。

●大相撲のレジェンドは千代の富士

 1981年初場所。関脇として14勝1敗で並んだ横綱北の湖と優勝決定戦で相まみえ、上手出し投げで下し、本割で敗れた屈辱を晴らして初優勝を決める。ちなみにこの日の千秋楽・NHK大相撲中継は視聴率52.2%、瞬間最高視聴率65.3%(関東地方平均・ビデオリサーチ社調べ)を記録し、今も大相撲中継の史上最高値として破られていない。ここから「ウルフフィーバー」が始まり、同年の7月場所に2度目の優勝を果たして横綱昇進を決めた。

 横綱になっても努力を怠らなかった。前場所で負けた相手には積極的に相手部屋へ稽古に出向き、攻略法を見つけようとした。横綱のポジションになればデンと構えてラクをしそうにも思えるが、千代の富士の辞書にはそのようなものは一切なかったのである。例えば元大関小錦(現KONISHIKI氏)には初対戦から連敗を重ねたが、相手の高砂部屋まで自ら足を運んで何度も出稽古に行くことで勝利への糸口を見つけ出した。最終的に20勝(うち不戦勝が1つ)9敗と大きく勝ち越したのは、まさにこうした努力の賜物である。

 「横綱という立場の人が、恥も外聞も捨てて出稽古にやって来る。普通ならばプライドが邪魔をするのに、横綱(千代の富士)は違った。『横綱だからこそ負けてはいけない』という責任感が人一倍強かったのだと思う。あの当時は、もうこっちがギブアップしたくなるくらいに何度も出稽古に駆り出され、そしてぶつかり合った。あそこまで負けん気が強く、取り口を追求し続ける力士は見たことがない。間違いなく本当に強い大横綱だった」とKONISHIKI氏は回想している。

 同氏が外国メディアから取材を受けた際、必ず「NBAのレジェンドはマイケル・ジョーダン、大相撲のレジェンドは千代の富士」と言い切ってリスペクトしているのもうなづける話だ。

 日本人力士はもちろんのこと、KONISHIKI氏を含め新旧の外国人力士たちからも「レジェンド」として羨望の眼差しを向けられていた。現在の横綱2人も「自分が目指すべき理想の力士」(横綱白鵬)、「『史上最強』の名がふさわしい横綱」(横綱日馬富士)と千代の富士に強い尊敬の念を抱いている。「千代の富士イズム」は脈々と現世代の最強力士たちに受け継がれているのだ。

●メディアがほとんど報じない“謎”

 さて、最後にメディアがほとんど報じない“謎”について触れておきたい。現役当時、北天佑(元大関・故人)との対戦が「因縁対決」と呼ばれていたことだ。

 「北天佑の弟が千代の富士と同じ九重部屋に所属していたが、部屋の面々に“かわいがり”を受け、その因縁があって兄である北天佑が千代の富士と対戦する際にはいわゆる『ガチンコ勝負』を常に仕掛けていたという話がまことしやかに広がっている。その“かわいがり”には横綱(千代の富士)も加わったとささやかれているが、実を言えば弟は兄も手を焼くほどの素行のよくない『ワル』で部屋の面々の我慢も限界に達し“かわいがり”につながったとも聞く。

 後に、その弟が週刊誌上で告発しているが、当時を知る大半の関係者は『正義感からの行為だった』として横綱に同情的。いまでは“かわいがり”など持ってのほかとされているが、その昔は相撲界でも『よくある話』だったわけだからね。いずれにしてもその当事者の2人(千代の富士、北天佑)は今、旅立ってしまったのだから真相は分からないが……。

 ただし、千代の富士対北天佑がそういう因縁対決を連想させるような、昭和末期を代表するバチバチの熱い戦いであったことは間違いないですよ」(日本相撲協会関係者)

 かつて多くの人たちの胸を高ぶらせた昭和最後の偉大なる大横綱・千代の富士貢関。61歳で天に召されてしまうとは余りにも早過ぎるが、心からご冥福をお祈りする。合掌――。

(臼北信行)

最終更新:8月2日(火)11時49分

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