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「記憶つなぐ 富山戦後71年」恐怖、肌で感じた

北日本新聞 8月2日(火)0時47分配信

■手話で惨状語り継ぐ/聴覚障害者の竹川さん(富山)

 音のない世界で体験した富山大空襲の記憶を、手話で語り継ぐ男性がいる。聴覚障害者の竹川秀夫さん(84)=富山市長江新町=だ。1945(昭和20)年8月2日未明、空襲警報も聞こえない中、突如降りそそいだ焼夷(しょうい)弾の猛威。命からがら逃げ延びたあの夜の恐怖を、忘れたことはない。当時を知る仲間は少なくなった。「障害者の過酷な体験を伝えていかなければ」。そう決意している。

 竹川さんは生まれつき耳が聞こえない。30年ほど前から富山大空襲や戦争について調べる取り組みを続け、手話通訳士の針山和雄さん(68)=富山市高畠町=と共に手話サークルなどで自身の経験を伝えてきた。

 3人きょうだいの長男。2歳上の姉も耳が聞こえず、戦時中は聴覚や視覚に障害のある人が通う富山市赤江町の「県盲唖(もうあ)学校」(富山聴覚、富山視覚両総合支援学校の前身)で学んだ。当時、自宅は学校のそばにあった。

 本格的な本土空襲が始まった44年に父親が出征。自宅では、夜になると敵機の目印にされないように電球に布をかぶせ、光が漏れないようにした。暗闇では口の動きで言葉を読み取る口話や筆談が難しい。「悔しく、イライラした」。身の危険を知らせる空襲警報も聞こえなかった。

 あの日の夜は、いつでも逃げられるよう服を着たまま6畳の部屋で寝ていた。揺さぶられて目を覚ますと、母が父の着物の帯で姉と自分の体をくくっていた。耳の聞こえない姉弟が闇の中ではぐれないようにするためだった。

 近くの防空壕(ごう)に身を隠した。爆弾が落ちると、振動が伝わってくる。隙間から燃えさかる炎が見えた。「恐ろしい。体が発火するように熱かった」。火の勢いに危険を感じ、外に出ると、防空壕はすぐにつぶれた。

 夜空には米軍のB29爆撃機が飛んでいた。目に見える大きさは「たばこ1本の3分の1ほど」。熱風が前から押し寄せてきた。

 野原に逃げ、夜が明けるのを待った。喉が渇き、臭いが鼻につく。街はがれきの山となり、家も学校も燃えてしまった。農家の女性がおにぎりを配ってくれた。「あの味だけは今も忘れられない」。手はすすで真っ黒に汚れていた。学校の焼け跡を見て、悔し涙が頬を伝った。同級生や先輩たちの顔が浮かんでくる。寄宿舎が併設されていただけに不安が募った。「無事だったろうか」。死者がいなかったことを後から知り、心の底から安心した。

 竹川さん一家は家を失った。ただ、もっと過酷な思いをした聴覚障害者の仲間もいた。戦後71年がたち、耳の聞こえない障害者があの夜、何に恐怖し、何を感じたのか、伝えられる人はほとんどいなくなった。竹川さんは手話で訴え続ける。「空襲は本当に恐ろしい。あんなことは二度とないように願う。戦争は絶対に嫌だ」 (社会部・柳田伍絵)

北日本新聞社

最終更新:8月2日(火)0時47分

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