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「母のようなリーダー」スーチー氏と家族の壮絶なストーリー

ZUU online 8月5日(金)6時10分配信

フォーブスが発表している「世界でもっともパワフルな女性100人」(Forbes The World’s 100 Most Powerful Women 2016)の中に、今年71歳のアウンサンスーチー氏(Aung San Suu Kyi)の名前を発見しました。

日本でもミャンマー(ビルマ)の女性政治家として有名だとは思いますが、現地では「マザー(Mother)」と言えばスーチー氏を指す、という程、多くの国民に母親のように慕われている存在です。

スーチー氏は、強さが前面に出やすい欧米の女性リーダーたちとは少し異なっているように筆者は感じております。そこで今回は、ミャンマー(ビルマ)人の友人に聞いた話などを参考に、スーチー氏のその素顔の裏に隠された、意外なストーリーを探っていきたいと思います。

■若い時は普通の主婦だった

現在の「強いリーダー像」からは想像もつかないのですが、スーチー氏は、若いころは、「自称…学問への野望を少しだけ抱いた…主婦」(『The Lady and the Generals Aung San Suu Kyi and Burma’s struggle for freedom』 Peter Popham著)だったそうです。

1945年、スーチー氏はイギリス統治下のビルマで生まれ、インドのデリー大学やイギリスのオックスフォード大で学びました。名門大卒ですから、学問への野望を抱いている…というのも分かる気がしますが、実は、料理上手で有名だったとか。

スーチー氏は26歳のころ、オックスフォード大の1つ後輩のイギリス人男性、マイケル・アリス氏(Michael Aris)と結婚します。アリス氏の若い時の写真を見ると、結構、ハンサムです。スーチー氏との結婚後に博士号を取得し、大学などで教える学者さんになったのでした。(biography.com参照)

スーチー氏は、結婚後、26歳から40歳までのほとんどの期間をイギリスで、主婦として暮らし2人の男の子の母親として、子育てにも熱心だったそうです。子供たちは2人とも黒髪で、イギリス育ちですが、アジア人らしい雰囲気も持っています。そして、彼女は、子育ても一段落した40歳頃に、再び大学院で学び始めました。

■母親の看病の為に帰国

イギリスで幸せな結婚生活を送っていたスーチー氏でしたが、1988年、42歳のころ、祖国からの1本の電話で緊急帰国することになります。

ミャンマー(ビルマ)にいる母親が倒れて、入院したというのです。この時、スーチー氏は、たった一人で母親の看病の為に帰国しました。父親は既に亡くなっており、兄弟も祖国を離れていましたから、母親が倒れたと聞いて、いてもたってもいられなかったに違いありません。

■帰国後間もなく、デモ隊が軍に発砲

運命とは不思議なものです。スーチー氏が帰国し、母親の入院先の病院に寝泊まりして看病していた時、病院のすぐ近くで、デモ隊に向かって軍が発砲するという事件(8888民主化運動)が起こりました。

デモ隊の学生たちは、スーチー氏の父親である、故アウンサン将軍の写真を掲げていました。これを目の当たりにしたスーチー氏の心がどれだけ揺さぶられたことでしょう。

「『建国の父』の娘として伝説的ですらあった彼女がビルマに戻っていることを知った民衆は、民主化運動への合流をアウンサンスーチーに要請、8月26日シュエダゴンパゴタで約50万人の民衆を前に初めて政治的な演説を行う」(出典:京都精華大学 創立30周年記念事業 「自由へのメッセージ」) ことになったのです。その時、傍には、イギリスから駆けつけた夫と子供たちがいました。彼女が輝く流星のように祖国の民衆の前に姿を現した時、彼女を支えたのは、愛する夫と子供たちだったのです。

■家族と離れ離れに

このスピーチを機に、スーチー氏の運命が大きく変わりました。たちまち民主化運動のリーダーとなったスーチー氏は、子供たちの身の安全の為に、2人をイギリスに帰国させました。この時、息子たちは、まだ、15歳と11歳でした。続いて夫も、強制的にイギリスに帰国させられます。さらにその頃、病床の母親が亡くなり、家族と一緒だったスーチー氏は、あっという間に一人ぼっちになってしまいました。

この時、彼女には、「母親を亡くし、看病する必要がなくなったので、イギリスにいる夫と息子たちの元に帰る」という選択肢があったはずです。でも、彼女はそうしませんでした。祖国の民主化を実現させる為、国に残る決心をしたのです。

■息子が代わりに行ったノーベル平和賞の受賞スピーチ

その後、スーチー氏が、軍政権下において、44歳から65歳までの21年間のうちの約15年間を自宅軟禁状態に置かれたことはあまりにも有名です。自宅軟禁というのが、どういう状態なのか、筆者の理解の範囲を超えていますが、長い自宅軟禁生活を終えても、スーチー氏が心身ともに正常であったことは、やはり驚きに値すると思います。

この間、夫のマイケルは、妻のノーベル平和賞受賞を働きかけ、1991年、スーチー氏が46歳の時に実現させました。息子のアレクサンダーが、スーチー氏の代わりに、受賞のスピーチをするのを、彼女はラジオで聞いたそうです。強い心で家族を思い続けることで、彼女は心の健康を保つことができたのかもしれませんね。

■祖国を出るか、夫に会いにいくか…

そして、おそらく、スーチー氏の人生でもっとも難しい選択をする瞬間が、その後に、訪れました。夫のアリス氏のがんが判明したのです。

死が間近に迫った夫に会いに行く為、2度と祖国には戻れない覚悟で国を出るか…

それとも、いつ勝利の瞬間が訪れるとも知れない状況で、このまま自宅軟禁生活を続けるか…

彼女の出した結論は、そのまま国に残ることでした。結局、1999年、スーチー氏が53歳の時、夫が亡くなるまで、2人が会うことは叶いませんでした。

■今、スーチー氏を取り上げた理由

筆者が今回、スーチー氏を取り上げたのは、スーチー氏はどこか、世界のほかの女性リーダーたちとは違う、「女性が好きな、女性リーダー」だと感じているからです。少なくとも私はとても憧れています。

ところが彼女が政権与党となって数か月経った頃から、彼女を批判する記事が相次ぐようになり、それは、どちらかと言えば、男性の意見なのではないかと思い、女性の立場から、彼女のよさを伝える記事を書いてみることにしました。

■ミャンマー出身の友人の話

ミャンマー(ビルマ)出身の友人は、スーチー氏のことを「どんな批判にも耐えられる強い心を持った人だ」と絶賛する一方で、「誰のことも責めないというスーチー氏のやり方が本当に正しいのか疑問に思う。暗い歴史をつまびらかにすることも必要なのではないか」とも話していました。

彼女の話を聞く前は、私は、純粋に「軍事政権は100%悪い」と思っていましたが、彼女の話を聞いてみて感じたのは、政治的には、様々な立場の人がいるし、物事を一概に善悪でとらえるわけにはいかないということでした。

強そうに見える人にも、家族や自分との心の葛藤があること。最初から成功していたわけではなく、紆余曲折があって今に至ること。人生には様々な選択の場面があって、困難な選択をできる人にしか特別な道は拓かれていないこと。今回、政治的なことには触れませんでしたが、スーチー氏と彼女の家族のストーリーから、こうしたことを伝えられたらと思っています。

林 立恵
早稲田大学政治経済学部、大学院法学研究科卒業。法学修士。政府系金融機関・外資系金融機関に勤務し、融資審査業務などを担当した。現在は国際機関勤務の夫、子供2人と共にアジア圏在住。

(提供:DAILY ANDS)

最終更新:8月5日(金)6時10分

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