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「天皇の生前退位」皇室典範の規定は? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語

THE PAGE 8月8日(月)6時10分配信

 先月、天皇陛下が「生前退位」の意向を示されたことが大きなニュースになりました。8月8日には、陛下が「お気持ち」をビデオメッセージの形で国民に示されます。そこで今回は「皇室典範」「生前退位」「象徴天皇制」などのキーワードについてあらためて考えてみました。

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●江戸以前は珍しくない「生前退位」

 言うまでもなく、天皇陛下が生前に皇太子など後代へ地位を譲って退くことを指します。江戸時代以前は当然のように行われていました。

 確認できる最初の生前退位は、女帝の皇極天皇(在位642年~645年)です。皇子(天皇の男の子)の中大兄皇子が、有力豪族の蘇我氏を倒した後に弟の孝徳天皇へ譲位しました。

 9世紀から11世紀の中ごろまで「摂政」(天皇が幼少または病気や事故があった際に代わって政務を執行する)、「関白」(天皇の成人後に後見役として政務に関わる)として権勢を誇った藤原北家の時代は、幼い天皇が次々と即位しては退いていきました。藤原氏は皇族ではなくあくまでも臣下の最高位。娘を天皇の后として生まれてきた皇子が即位すれば外祖父(母方の祖父)として絶大な力を及ぼせるので、氏の長者(藤原氏の頂点に立つ人物)が代わると、しばしば別の天皇が即位したのです。外祖父と孫の組み合わせですから当然、幼帝となるのです。

 1068年に即位した白河天皇からは「院政」がみられます。白河帝は子の堀河天皇に譲って「太上天皇(天皇の譲位後の尊称)=上皇」となって、子、孫、ひ孫の三代に渡って天皇に代わって政治を取り仕切りました。何かと制約が大きい現役の天皇と比べて身軽であり、かつ権威は天皇と同格なので自由な立場で政務をこなしました。

 潮目が代わったのが鎌倉時代に入って院政を敷いていた後鳥羽上皇側が鎌倉幕府と戦って(承久の乱、1221年)敗北してから。以後は、後醍醐天皇の建武の新政などの例外を除き、朝廷そのものが政治の実権を武家政権(幕府など)に握られるようになります。それでもさまざまな理由から譲位する天皇は珍しくなく、現時点で最後に生前退位し、上皇として院政を行ったのが光格天皇(在位1780年~1817年)です。光格帝は皇族ではあっても先代からはかなり遠い血筋にあたると同時に、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、今上天皇と現在につながる直系の祖でもあります。

 明治時代に入って1889年、皇位の継承、天皇の即位式、摂政の制などを定める皇室典範が制定されました。皇位の継承は天皇の崩御(死去)と定められます。この点は現在の皇室典範でも変わっておらず、生前退位は想定されていません。

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最終更新:8月8日(月)7時9分

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