ここから本文です

業界記者がつづる、元富士通社長 「故・秋草直之氏の思い出」

ITmedia エンタープライズ 8月10日(水)17時44分配信

 富士通の社長・会長を歴任し、顧問を務めていた秋草直之(あきくさなおゆき)氏が6月18日、急性心不全のため逝去した。享年77歳。

【画像】関西へ赴任する際の女子社員からのメッセージも公開。出張中の洗濯法や、間違えて女子トイレに入ってしまったときのエピソードが面白い

 7月29日に東京・内幸町の帝国ホテルで富士通主催のお別れの会が開かれ、多くの人が故人を偲んだ。

 富士通の田中達也社長は、「亡くなられる2日前にお会いしたばかりだった。顧問室にお邪魔したら、ずっと立ったまま話をされていた。元気な姿を見た後の突然のことなのでびっくりした」と振り返る。「営業時代に、ずいぶん助けていただいた。お願いすると気軽に同行してくださり、大型商談の成約につなげたこともあった」と語った。

 帝国ホテルで開催されたお別れの会で、集まった人たちが笑顔をみせていた一角があった。「秋草直之の思い出」と題されたコーナーだ。

 そこには、秋草氏の幼少期の写真や、秘蔵ともいえる32歳当時のお見合い写真、若きSE時代に当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下)の前で、FACOM 230シリーズを操作するシーン、関西営業本部長時代のテニスや綱引きを楽しむ姿、さらに初任給が2万円であったことを示す給与明細書までが展示され、多くの人が、ありし日の秋草氏を笑顔で偲んでいた。

 こうした笑顔が見られたお別れの会は、秋草氏の人柄を示すものだったといえる。

●ぼくとつな言葉に垣間見た氏の熱き志

 秋草氏といえば、2001年に週刊東洋経済10月13日号のインタビュー記事に掲載された「従業員が働かないからいけない」という発言が、今でも取り沙汰される。社長就任以来、業績悪化が続いていることを問われての回答だった。この発言は責任転嫁や責任放棄などともいわれ、当時は大きな話題となった。

 だが、このとき富士通は、いち早く成果主義を導入しはじめていたところだった。もしそのニュアンスが含まれていたとしたら、あの発言は別の意味に受け取られることもあっただろう。実は「成果主義を徹底したい」という意志がこの言葉の根底にあったのではないだろうかと、筆者は推察している。

 もともと秋草氏は、言葉足らずなことが度々あった。180センチを超える身長でありながら、喋りはぼくとつだ。言葉が少ないから、その発言は誤解されるときもある。年に1回開催される記者懇親会では、秋草氏の周りに集まる記者の数はいつも少ない方だった。喋りが続かないから、どうしても間ができてしまう。秋草氏の性格や喋り方を知っている記者以外は集まりにくいという雰囲気ができてしまっていたのは確かだった。だが、その喋りには含蓄があり、多くの学びを得た。

 他愛のないことだが、筆者の記憶になぜか残っているエピソードがある。1993年10月のことだ。富士通が中国・北京の人民大会堂で民間企業初の単独展示会を開催するに当たり、北京に向かう成田空港で、秋草氏とばったりお会いした。

 筆者もその取材のために空港におり、多分、秋草氏も同じ便を待ってたいたのだろう。当時専務取締役だった秋草氏は、まだ若手記者だった私に声を掛けてくださり、別れ際に「これから床屋に行ってくるよ。最近時間がなくて行けていなかったから」と言い残して足早に去っていった。フライトまであまり時間がなかったことを記憶しており、わずかな時間も有効に使う秋草氏の姿勢に感じ入ったものだ。

 その後、筆者はちょこちょここの手法を使わせていただいている。海外渡航前や国内出張前に、ちょっとの時間を利用して空港の床屋に行くのだ。そのたびにいつも秋草氏を思い出す。そして、当時北京ではさっぱりしたヘアスタイルになった秋草氏に取材をさせていただき、中国をソフトウェア開発拠点として拡大する方針について伺ったことを思い出す。

●ソフト・サービス事業に着目し、時代の潮流を牽引

 秋草氏は、1938年12月12日生まれで栃木県の出身。実父は、日本電信電話公社(現NTTグループ)総裁を務めた秋草篤二氏である。1961年3月に早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業後、同年4月に富士通に入社。まだ「SE(システムエンジニア)」という呼び方がなかった時代からシステム開発の最前線で活躍した。富士通初の文系出身SEでもあり、ソフト・サービス畑を一途に歩んできた。

 1995年1月の阪神・淡路大震災の際は、専務取締役関西営業本部長として関西エリアを統括していた秋草氏は、災害対策本部長として現地で陣頭指揮を執った。また、コンピュータシステムのトラブルが懸念された2000年問題の節目では、業界団体である社団法人日本電子工業振興協会(現:一般社団法人電子情報技術産業協会)の会長を務めていたこともあり、2000年1月1日午前1時10分から赤坂プリンスホテルで開かれた同協会の会見で、秋草氏は「2000年問題に関して、大規模な問題は一つも発生していない」と業界を代表して宣言した。

 秋草氏は、早い時期から社長候補の一角と目されており、1988年に取締役に就任した際は「ソフトウェア・サービスビジネスを富士通の柱にする」と明言。そして、1998年に社長に就任して最初に取り組んだのは、ソフトやサービスを重視する企業への路線転換だった。

 これは前任の関澤義氏が打ち出した「ノンハードビジネス指向」を継承したものであり、富士通のオープン化への構造転換を大きくドライブする役割を担った。先行するIBMがサービス事業を中心とした事業モデルへと転換する中、富士通もそれを追いかけ、それまでは「サービスは無償」という意識が浸透していた業界に穴を開ける総合サービス体系の「PROPOSE」を発表。当時は「自殺行為」とまでいわれたが、サービスの事業化に取り組んだ。

 さらに「MISSION/DC」という新たなメインフレームのコンセプト、「MESSAGE 90’s」と呼ぶシステム連携コンセプトを同時に打ち出し、社長就任前から秋草氏がソフト・サービス事業を統括しながら、ノンハードビジネス化とオープン化を加速。社長就任後もこれに力を注ぎ、現在につながる富士通の重要な変革を指揮してきた。

 社長就任直後にインタビューをさせていただいたことがあった。このとき「ソリューションが悪役から脇役へ、脇役から主役になろうとしている」と発言されたことが印象深い。まさに昨今のソリューションビジネス中心の時代を秋草流の言葉で予言していたのだ。

 ちょうど社長就任時期がWindows 98の発表時と重なっていたことから、当時それに関する質問もしてみたが、「富士通は、すぐにPCでトップシェアを獲得する」と宣言しながらも、「『メインフレームよ、さようなら』と言っているのはPC事業をやっている人たちだけ」と一蹴。「PCのトップシェアを獲得できるのも、富士通のSE力やサービス力があるからこそ」「メインフレームの信頼性と奥行きをPCが追い越すのは今世紀(21世紀)を過ぎてから」などと発言。現在の世界を的確に予測してみせた。

●先見の明で17年前にIoTを先取り

 もう1つ、秋草氏の功績として見逃せないのが、インターネットをインフラとする新たな社会へのパラダイムシフトを示した「Everything on the Internet」をスローガンとして打ち出し、富士通を大きく変化させてきたことだ。これは、まさに今でいうIoT(Internet of Things)のことを指す。17年も前にその時代が訪れることを打ち出していたのだ。

 このとき、秋草氏は「変化することで起こるリスクよりも、変化しないことで起こるリスクの方が大きい。もし迷うならば、変化を選べ」と社内に発言。富士通にイノベーションを起こす体質を植え付けることにも力を注いだ。

 だが、経営は試練の連続だった。「Everything on the Internet」の発言は株式市場から大きく評価され、株価は大きく上昇したが、その後のネットバブルの崩壊もあり、株価は低迷。2001年度は同社初の赤字決算となり、3825億円の最終赤字を計上することになった。

 さらに、2002年度も1220億円の赤字と2期連続の最終赤字。2001年に50%の役員報酬削減を自らに課したものの、「半導体業界が最悪の事態となっていることが業績悪化の要因であり、社長の経営責任ではなく、業界として今どうなっているのかという理解が必要。この事態にひたすら対応していくことが重要だと考えている」と発言した。

 3000億円の構造改革費用を計上し、追加削減を含む2万人以上の人員を削減。これを「痛みを伴う、骨太の構造改革」と称し、大鉈を振るったが、その改革成果は社長時代には実現せず、2年連続の最終赤字の発表に合わせて社長をしりぞくことになった。その後、2003年6月から代表取締役会長に就任。2008年6月には取締役相談役、2010年6月には相談役、2014年7月には顧問に就任していた。

 お別れの会で配られた山本正已会長、田中達也社長の連名による「ご挨拶」では、「故人の柔軟にして剛毅、卓抜たる見識を思い返すとき、世界レベルで政治、経済に不透明感が広がり、端倪(たんげい)すべからざる状況が続く今の時代だからこそ、もっともっと故人の達識に触れたかったと残念でならない」と記されていた。

 1998年3月の社長交代会見では、前任の関澤義氏が「先を見る目と、良い意味での腕力を持つ」と、秋草氏の社長選出理由を述べた。そして、社長就任直後のインタビューで自らについて「右往左往しない、クールな判断ができる」と答えていた秋草氏。今の時代こそ、その経営手腕が求められているのかもしれない。

 ご冥福をお祈りする。

最終更新:8月11日(木)14時13分

ITmedia エンタープライズ