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家族を殺されても日本兵105人に恩赦を下したフィリピン大統領 71年目の顕彰碑

BuzzFeed Japan 8/13(土) 11:00配信

東京・日比谷公園に6月、ある顕彰碑が建立された。在日フィリピン大使館や日本政府、両国関係者の協力で建てられたこの碑は、エルピディオ・キリノ第6代大統領(1890-1956)の功績を讃えるものだ。

皇居や省庁に近いこの公園の一角に、半世紀以上前のフィリピン大統領の顕彰碑が建てられたのは、なぜか。
話は、日本軍がフィリピンに攻め入った第2次世界大戦にさかのぼる。【BuzzFeed Japan / 鈴木貫太郎】

妻子失ったマニラ市街戦

1941年12月、真珠湾攻撃と時を合わせ、日本軍はアメリカの植民地だったフィリピンに上陸。米軍との激しい戦闘が始まった。

当初は日本軍が優勢で米軍は撤退した。しかし、3年にわたる日本の占領期間を経て、太平洋での勢力を盛り返した米軍が逆襲。フィリピン中部レイテでの激戦を経て、首都マニラでの市街戦が始まった。

1945年2月、キリノ大統領は当時まだ上院議員だった。キリノ大統領の親族らの証言によると、当時の状況は以下のとおりだ。

マニラ市内にあったキリノ家は、米軍の砲撃で邸宅の一部が破壊され、一家は近所にある親族の家への避難を決めた。

砲弾が飛び交う中で一家が避難を試みた直後、キリノ大統領の妻アリシアと長女が日本兵の銃弾に倒れた。妻に抱えられていた2歳の三女も亡くなった。

キリノ大統領は、妻とは違うタイミングで避難したため、直接目撃することはなかった。しかし、この悲劇はキリノ大統領の心に癒されない深い傷を残した。

このマニラ市街戦では、民間人約10万人が犠牲になったといわれる。「東洋の真珠」と称されていたマニラは廃墟と化した。

キリノ大統領は、妻子を含む親族計9人を亡くした。

BC級戦犯105人への恩赦

戦後、戦争指導者らがA級戦犯として、東京で裁かれたように、フィリピンでも日本軍に対する裁判が始まった。

兵士らは「BC級戦犯」として、殺人や虐待などの罪に問われ、計137人が有罪となって処刑されたり、懲役刑を受けたりした。

3年間の占領期間とその前後の戦闘で、日本軍に対するフィリピンの人達の怒りは非常に強かった。

そんな中で、1948年にキリノ大統領が誕生。日本との国交回復の交渉に臨んだ。1953年、再選を目指していた大統領は大きな決断を下す。BC級戦犯への恩赦だ。

マニラの刑務所に服役していた元日本兵ら105人を釈放し、日本へ帰国させた。

恩赦決定の報を受け、日本では喜びの声が上がった。マニラからの船が横浜港に到着した際は、祖国に戻った元戦犯と遺族の再会が大きく報じられた。

一方、反日感情は根強く残っていた。元戦犯らが刑務所からマニラの港へ移動する際には、地元の人たちからの襲撃を防ぐため、フィリピン軍が護衛したという。

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最終更新:8/13(土) 12:41

BuzzFeed Japan

北朝鮮からの脱出
北朝鮮での幼少時代、『ここは地球上最高の国』と信じていたイ・ヒョンソだったが、90年代の大飢饉に接してその考えに疑問を抱き始める。14歳で脱北、その後中国で素性を隠しながらの生活が始まる。 これは、必死で毎日を生き延びてきた彼女の悲惨な日々とその先に見えた希望の物語。そして、北朝鮮から遠く離れても、なお常に危険に脅かされ続ける同朋達への力強いメッセージが込められている。