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宮城事件、玉音放送阻止へ偽命令 元近衛兵「慙愧に堪えない」

福井新聞ONLINE 8月14日(日)8時42分配信

 終戦に反対し、徹底抗戦を唱えた一部の陸軍将校らが玉音放送の録音盤を奪って放送を阻止しようとしたクーデター未遂事件「宮城(きゅうじょう)事件」。元近衛(このえ)兵の吉田巧さん(93)=福井市=は71年前の8月15日未明、偽の命令によって録音盤を探し回った兵士の1人。「陛下をお守りする部隊でありながら陛下に逆らう行為だったことに、その時は考えもつかなかった」と、命令に疑問を挟まず唯々諾々として従った事件を「慙愧(ざんき)に堪えない」と振り返り、不戦への思いを新たにしている。

 全国から選抜された近衛兵は天皇、宮城(皇居)の警護に当たった。吉田さんは徴兵検査の「甲種」に合格し20歳だった1944年、近衛歩兵第2連隊に入隊した。訓練などを経て皇居に入ったのは45年の6月末。東京の空襲も激しくなり、上空を飛び交う米軍爆撃機B29を警戒し、焼夷(しょうい)弾が落ちてこないか監視していた。

 宮城事件について吉田さんは「『録音盤を探せ』という命令に従って大勢で宮内省に突入した。しかし庁舎内は広く、どこから探せばいいのか雲をつかむようなものだった」。引き出しや金庫をひっくり返し、必死だったという。

 録音盤探しが偽の命令だったと吉田さんに情報が入ったのは朝方だった。終戦を知り「この先どうなるのかと不安が募る一方で、戦争が終わって良かったという安堵(あんど)感もあった」。

 近衛師団は解散となり45年10月、福井に帰郷した。県などによると、吉田さんが同連隊に所属した記録は残っているが、県人がどれだけ所属していたのかは分からないという。

 終戦の日が近づくたび、事件のことが頭をよぎるという。「戦争の混乱でみんな正しい判断ができなくなっていた。陛下のご聖断によって今がある。戦争は絶対にしたらあかん」と語気を強める。

 2年前、近衛兵の記憶を手記にしたためた。「生涯を精神的に支え律してきたのは、誉れの近衛兵として陛下のご守衛の任務に携わったこと。しかし陛下のご意志に反するクーデターに参加した事実は、消しても消しても消しきれない大罪で、痛恨の極み」などとつづり、自身の俳句で締めくくっている。

 「終戦日 死ぬまで近衛兵たりき」

 【玉音放送】 天皇の声で行われる放送。1945年8月15日正午に流れた昭和天皇が終戦の詔書を読み上げられたラジオ放送を指すのが一般的。終戦前日の14日、皇居内の防空壕(ごう)「御文庫(おぶんこ)付属室」でポツダム宣言の受諾を最終的に決められた昭和天皇が、同日午後11時25分、宮内省の内廷庁舎執務室で2回にわたり録音した。

 【宮城(きゅうじょう)事件】 宮内庁が2014年に公表した「昭和天皇実録」によると、一部の陸軍将校らが1945年8月14日夜、皇居の警備を担う近衛第1師団の森赳(たけし)師団長を殺害。偽の命令によって部隊を動かし、15日未明には皇居を占拠した。玉音放送の録音に立ち会った下村宏情報局総裁らを監禁した上、録音盤を奪おうと探し回ったが発見できず、午前5時すぎに東部軍管区司令官の説得によって沈静化した。録音盤は、いまは宮内庁となっている宮内省内廷庁舎の侍従職事務官室の軽金庫に納められていた。

最終更新:8月15日(月)15時2分

福井新聞ONLINE