ここから本文です

国民に終戦を伝えた「玉音放送」とは? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語

THE PAGE 8/15(月) 14:35配信

 8月8日、天皇陛下の「お言葉」のビデオメッセージを「平成の玉音放送」と呼ぶ方もいました。1945年8月15日に流された昭和天皇のそれを彷彿させるという意味です。主権者であった当時の昭和天皇と「象徴」の今とでは体制や憲法が違うとはいえ、天皇の言葉の重みを改めて感じさせた出来事でもありました。

【動画】天皇陛下がお気持ち表明 「象徴の務め」果たすことが難しく

 今日は「終戦の日」。昭和天皇が国民に向けた玉音放送について、あらためて振り返ってみたいと思います。

堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ

 1941年12月に始まった太平洋戦争は45年になると敗色が覆いがたくなっていました。4月、海軍出身で天皇の側でお世話などをする侍従長の経験があった鈴木貫太郎が首相になると「終戦」「和平」が次第に現実的課題として浮上します。

 7月、日本と戦っていた連合国の米英中3国首脳によって日本が終戦できる条件などを決めた「ポツダム宣言」が出されました。連合国軍による占領、武装解除、戦争犯罪人の処罰、無条件降伏などを示しています。

 8月9日深夜から翌日にかけて昭和天皇も臨席した御前会議で、東郷茂徳外務大臣らが「皇室の確認」のみを条件に宣言受諾すべきと主張、他の条件も加えるべきであるという軍トップらと話し合いがつかず、鈴木首相は陛下の「思し召し」をあおぐと発言し、昭和天皇も東郷外相に同意すると答えて「天皇統治大権のみを条件」とする受諾がいったん決まりました。連合国側の回答が天皇の地位に関してあいまいであったのを受けて14日に再び御前会議が開かれ、昭和天皇の受諾意思が再び示されたため、同日、「終戦の詔書」として連合国側に通知しました。いわゆる「聖断」です。

 詔書を録音して天皇自らの声を日本放送協会(NHK)ラジオを通して国民に広く知らしめるというアイデアは下村宏情報局総裁の発案という説が有力です。天皇の肉声をじかに届けて理解を得、同時に徹底抗戦を叫ぶ一部の軍の動きを抑えるといった狙いがあったようです。内大臣(天皇の補佐役)であった木戸幸一の日記には11日にラジオ放送が「聖上の思召」であるという記載があります。

 録音は14日深夜から行われ、翌日正午に約5分間流されました。録音・放送状態が十分とはいえず、また漢語調の難しい表現であったため、国民が内容を直ちに理解できたかには疑問が残っていますが、その後の解説や口づてで「陛下の決断で戦争が終わった」という事実は同日中にはほぼ伝わったようです。

 内容をかいつまんで略記すると、

(1)ポツダム宣言を受諾した
(2)戦局は不利である
(3)さらに「殘虐ナル爆彈ヲ使用」(原爆投下)してきた
(4)このまま戦争を続ければ民族滅亡まで至りかねない
(5)戦争の死傷者や家族などつらい思いをした国民に対しては非常に心を痛めている
(6)今後の苦難は並大抵ではないが「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」和平を選択した

といったあらましでした。

 有名な「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」は木戸日記10日に天皇が木戸へ「勝ち目はもはやない。武装解除や戦争犯罪人の処罰は、その対象が忠誠を尽くした者と考えると実に忍びがたい」と語ったというところから推察できそうです。

 玉音放送の意味は、前述のように終戦を主権者である天皇自らの声で知らしめるという効果を期待していました。したがって15日は「ポツダム宣言受諾を国民が知った日」です。受諾そのものは前日の14日で、正式な休戦は9月2日の降伏文書調印となります。

1/2ページ

最終更新:8/15(月) 15:11

THE PAGE

北朝鮮からの脱出
北朝鮮での幼少時代、『ここは地球上最高の国』と信じていたイ・ヒョンソだったが、90年代の大飢饉に接してその考えに疑問を抱き始める。14歳で脱北、その後中国で素性を隠しながらの生活が始まる。 これは、必死で毎日を生き延びてきた彼女の悲惨な日々とその先に見えた希望の物語。そして、北朝鮮から遠く離れても、なお常に危険に脅かされ続ける同朋達への力強いメッセージが込められている。