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ベニア板の特攻兵器で出撃も命拾い 予科練の特攻経験を語る

THE PAGE 8月15日(月)16時55分配信

 太平洋戦争中、旧海軍の飛行予科練習生(予科練)として特攻訓練などに動員された当時の若者たち。長野市で終戦の日を前に開かれた戦争体験を伝えるつどいでは、いつも殴られ怒鳴られる非人間的な教育や、べニア板の特攻兵器で出撃を迫られるなど過酷な経験が語られました。終戦から71年がたち、戦争経験者の高齢化が進む中、つどいは「戦争体験を語り継ごう」と締めくくっていました。

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戦争で夫や子供を亡くした人の悲しみは残されたまま

 つどいは8月5日に長野市若槻地域の市民らでつくる「若槻郷土史研究会」(金子弘会長・会員104人)の主催で行われました。予科練などの経験をした80~90代の長野市民ら4人が体験を語り、約130人が聴講しました。

 第13期甲種予科練を卒業して1945(昭和20)年、爆薬を積んで特攻する特殊潜航艇「海龍」の操縦訓練を受けた大西匡(ただし)さん(88)=長野市=は、「中学校(旧制)の先生から、お前は予科練を受けろと言われた。予科練は志願制を装った実質動員令だった」、「12期の志願は3000人だったが、13期は一気に2万8000人に増えた」などと戦時の動員要請に応える旧制中学のあわただしい予科練熱を説明。

 1943(昭和18)年に三重海軍航空隊・奈良分遣隊に予科練習生として入隊。その後「海龍」の訓練中に終戦を迎えました。このころは小型のべニア板製水上特攻艇「震洋」や人間魚雷「回天」、特殊潜航艇「蛟龍(こうりゅう)」なども運用されていた時期で、「一部は戦果があったが、米軍も防御態勢を取り始めていった」と大西さん。

 「父は私の予科練受験を渋っていた。当時16歳の子どもだった私を親として心配したのも当然です」と振り返り、「自分の人生の影の部分で、これまで話したことはなかったが研究会の誘いで昨年来、講演を引き受けた。父、夫、子供を戦争で失った人々も今は多くが他界し、悲しみは残されたままだ。戦争からは何も生まれない」と語りました。

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最終更新:8月15日(月)23時47分

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