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《戦禍に揺れた飛行場 堤ケ岡の記憶》人形に託した思い

上毛新聞 8月15日(月)6時0分配信

 太平洋戦争末期の厳しい戦局で、陸海軍の若い兵士が敵艦船への体当たりを命じられた「特攻」―。鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館は、その記憶を伝える資料館だ。全国から年間約50万人が訪れる館内には隊員たちの遺影や遺書が並び、現代人に悲痛なメッセージを投げ掛ける。その展示室の一画に、古びた手作りの人形がひっそりと置かれている。傍らの説明には特攻隊員の遺品であることが記され、人形の足の部分を見ると「群馬県群馬郡堤ケ岡村 畔見公子」と贈り主の名前が記されている。

 日本本土の最南端に位置する九州南部からは、多くの兵士が航空特攻で出撃し、戦死した。しかし、この地から出撃した特攻隊員に、なぜ本県の女性が人形を贈ったのか。人形が歩んだ時間をたどると、71年前の8月15日まで、わずか1年間しか使われなかった県内の飛行場の存在が浮かび上がる。

 人形は2体あり、いずれも1945(昭和20)年4月6日、宮崎県の新田原(にゅうたばる)飛行場から沖縄に出撃し、22歳で戦死した陸軍誠第36飛行隊の細木章少尉(出撃時は伍長、島根県出身)の遺品だ。実は誠36、37、38隊の3隊(計36人)は同年3月5日から約2週間、特攻訓練のために本県の陸軍前橋(堤ケ岡)飛行場に滞在した。そしてそのわずかな間に、地元の人々と交流していた。

 細木少尉の人形に記されているのは、それぞれの作者である高崎高等女学校(高崎女子高の前身)の生徒の名前だった。そのうちの一人、今野(旧姓・畔見)公子さん(87)は、埼玉県東松山市に健在だ。

 「本当に昔のことで、忘れてしまったことも多い。時間にすれば数時間の交流だったけれど、今も隊員の皆さんに守られているように思うんです」。自宅の一室で遠くを見つめるように、今野さんは71年前の出来事を語り始めた。

 45年3月22日、今野さんは16歳で女学校の3年生だった。自宅が飛行場の近くにあった今野さんはこの日、親友と3人で、飛行場に飛行機を見に行った。当時、3人は学徒動員され工場で飛行機の部品を作っていた。作業を通して飛行機に興味を持っていた少女たちに声を掛けたのが、訓練のために飛行場に滞在していた細木少尉ら誠隊員だった。

 今野さんたちはそこで、彼らが特攻隊員であり、翌日群馬を出発予定であることを知る。3人で一緒に見送ることを約束して帰宅した後、早速お守りの人形作りに取り掛かった。「あり合わせの布を使って、ほとんど徹夜で2体作りました」。帽子をかぶせてかわいらしく目を描き、人形を完成させた。
 ◇   ◇   ◇
 後に高崎市となる堤ケ岡村(旧群馬町)周辺の広大な土地に、飛行場の建設が始まったのは43年5月。急ピッチの工事で44年8月1日に完成したが、使用されたのは45年8月15日までのわずか380日間だった。終戦間際の1年間しか使われず、当時の軍事機密でもあったため、飛行場について知る人は少ない。71年前、県内に確かに存在した飛行場の記憶を追った。

最終更新:8月15日(月)6時0分

上毛新聞