ここから本文です

父の形見 戦意高める紙面、警鐘に受け継ぐ 佐賀市

佐賀新聞 8月15日(月)11時11分配信

「うそに国民喜ぶ」時代の証し

 アジア・太平洋戦争の終結から71年の歳月が流れる中、昭和初頭から終戦直後までの新聞を自宅に保管している人がいる。佐賀市北川副町の溝内一郎さん(79)で、戦時下に空襲から逃れるため、大阪から父親の故郷の佐賀に移り住み、戦禍を免れた新聞を受け継いだ。大戦と家族の記憶を刻む形見にしている。

 溝内さん宅にあるのは、大阪で発行された「大阪時事新報」「朝日新聞」「大阪毎日新聞」の3紙と、終戦直後の佐賀新聞。年代や大きな出来事で分類した束を15冊ほど保管している。

 新聞は、父親の秀次さん(故人)が購読していた。秀次さんは、でっち奉公で大阪に出た後、金物商として成功した。戦時下に空襲の危険が迫ると、知り合いがいた長崎県に家族6人で疎開し、佐賀市で終戦を迎えた。大阪は疎開後間もなく爆撃を受けた。一家と、疎開先まで運んだ新聞はかろうじて被害を免れた。

 新聞を読み進めると、次第に戦争一色に染まっていく様子がうかがえる。1941(昭和16)年12月9日の朝日新聞は「先制皇軍・劈頭(へきとう)の大戦果」と太平洋戦争の端緒を開いた真珠湾攻撃の戦果を報じ、夕刊では「帝国・英米に宣戦を布告」と大見出しを打った。

 真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込んで戦死した「九勇士」の氏名が公表された42(昭和17)年3月には、佐賀県出身の広尾彰大尉らの顔写真や絶筆、関係者の声を各紙が競うように掲載し、戦意を駆り立てた。

 敗色が濃くなった時期も、大本営発表の戦果を知らせる勇ましい見出しが並ぶ。溝内さんは「新聞が書いたうそに国民は喜んでいた。こんなばかな話はない」と不快感を隠さない。

 苦労した大阪の思い出が詰まっていたからか、新聞の存在によって激動の時代を生きた証しにしたかったのか。秀次さんは戦後に新聞を何度も読み返し、「これだけは大事に取っておけ」と話していた。

 溝内さん自身、米軍機の機銃掃射から命拾いをした経験がある。敗戦という結末を体験した上で、事実とは異なる記事で飾られた新聞を開くたびに、「戦争がいかに人間を不幸にするかを再確認する」という。

 新聞は興味を示している孫に受け継いでほしいと考えている。

最終更新:8月15日(月)11時11分

佐賀新聞