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独立運動の歴史無視する「建国節」議論、李明博、朴槿恵政府を経て露骨に

ハンギョレ新聞 8/18(木) 11:44配信

建国節の議論の歴史

 2016年の韓国で「建国」という二つの音節の普通名詞は、政治的な揮発性が非常に強い単語である。「建国を記念する国慶日」を意味する「建国節」もやはり同じだ。この名詞はいつからか、その用例において革新と保守が対決する理念の激戦場となった。

 それほど昔の話ではない。2008年8月15日当時、李明博(イ・ミョンバク)大統領は就任後最初の8・15祝辞で「大韓民国建国60年は『成功の歴史』であった。…建国60年、私たちは『自由の価値』を守るために自由を脅かすものすべてに対し堂々と戦ってきた」と述べた。1948年以後、歴代政府が政権の性格とは関係なく8月15日を帝国主義から独立を勝ち取った「光復節」として記念したという点からすると、「解放」より「建国」の意味を前面に出した李大統領の8・15の規定は注目すべき事件だった。

 学界と市民社会が沸いた。3日前、韓国近現代史学会や民族問題研究所など14の韓国史研究団体が「建国節の撤回を求める歴史学界の声明書」を発表したところだ。彼らは声明で「『1948年建国』という主張は独立運動の歴史を卑下する意図」と主張した。彼らが名称変更の「意図」を疑ったことには理由があった。名称変更が「植民地近代化論」を主張し、李承晩(イ・スンマン)初代大統領を「国父」として持ち上げ、軍事政権の産業化に対する業績を強調するニューライトの知識人たちによって推進されていたためだ。

 実際、「建国節」は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政府の任期4年目である2006年7月31日、東亜日報が「我々も建国節を作ろう」というソウル大学のイ・ヨンフン教授の寄稿文を載せ、初めて登場した。イ教授は、当時ソウル大学のアン・ビョンジク名誉教授とともに韓国の近代化が日本の植民地支配を通じて行われたと考える植民地近代化論の代表論者に挙げられた。翌年秋、当時ハンナラ党のチョン・ガプユン議員が光復節を建国節に改称する内容の「祝日に関する法律改正案」を発議した。

 しかし、当時でも彼らの主張や行動は大きく注目されなかった。その背景と政治的意図が浮き彫りにされなかったためだ。実際、「1948年建国」という表現は長い間「1948年政府樹立」という表現と混用された。金大中(キム・デジュン)、盧元大統領も同じだった。 金元大統領は任期1年めの1998年8月15日を「建国50年」の時点と規定し「第2建国運動を繰り広げよう」と強調した。盧元大統領も2003年8・15祝辞で「58年前、私たちの父、母たちは日本帝国主義の圧制から解放された。それから3年後には民主共和国を樹立した。今、私たちは解放と建国の歴史の上で自由を享受し、新たな未来を準備している」とし、「建国」の意味を高く評価した。

 名称をめぐる論争は、李明博政府時代ニューライト団体の「代案教科書」の出版、朴槿恵(パク・クネ)政府の歴史教科書の改訂および国定化の動きと相まって「理念の衝突」に飛び火した。革新陣営は「1948年建国」の主張を日帝強制占領期の独立運動の意味を低く見なし、1948年の政権樹立のプロセスに参加した親日派を復権させる試みと規定しているが、このような観点は満州軍の将校出身である朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領の娘の朴槿恵大統領が就任してからより一層強化された。朴大統領が父の親日と民主主義弾圧の経歴を隠すために「48年建国節」に同調しているという論理が広がったのである。

 学界では、論争が政治化しすぎているという懸念も出ている。現代史論争に参加したある50代の政治学者は「近代国家の構成要件である『領土の支配』という観点からすれば、1948年を大韓民国という国家の建立起点と見られ、その政府が1919年に建立された大韓民国臨時政府の法の正統を継承したため、1919年を起点とする主張も妥当性がある」とし、「今の論争は画一的な結論を求めすぎだ」と話した。

イ・セヨン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

最終更新:8/18(木) 11:44

ハンギョレ新聞

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