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選手がハダシで…日大三と敬愛の壮観な合同練習

東スポWeb 8月21日(日)16時49分配信

【越智正典「ネット裏」】U―18の監督、小枝守は日大三高、拓大紅陵の監督として、春4回、夏6回、計10回、選手を甲子園に連れて行っているが、兄さんが高校野球の監督を務めていたことから野球をはじめ、日大三高、日大。1年生の冬が終わろうとしていた2月、母校から呼び出された。行ってみると「野球部の監督にいずれ迎えたい」「教員免許を取得して欲しい」。びっくりした。日大三高は1929年に日大赤坂中学として創校。このところ甲子園大会に出場していないが、名門校である。人物を見込まれ、打診内示があったとき、なんと20歳であった。経済学部を卒業後、正式に教員、監督になった。授業を持つと野球の指導も深くなる。学校はいまの町田市図師町の丘の上に移り、清新な伝統を作ろうとしていた。

 日大三高の先輩、布施勝久が、監督が明治大の後輩、村山忠三郎の、1925年創校の旧関東中学、千葉四街道の敬愛高との練習試合を小枝にすすめる。布施が4年生になった57年、東京六大学は立教大が春夏連覇。が明大は秋10月、立教との1回戦に0対8で大敗したが、2、3回戦に勝ち、長嶋茂雄ら黄金の立教に唯一、土をつけたときの4番。のちに国際審判。敬愛の捕手、村山は千葉高野連の役員の推薦で明大へ。下積みが忍耐を生み、忍耐が練達に通じた。63年卒業。車の地販に勤め、その社の全国地販で販売台数連続日本一。お客さんにお上手をいう男ではない。とどけたのは誠意。その後、頼まれて母校の監督に。秋、準優勝。前橋での関東大会の公式前夜祭に御大、島岡吉郎が飛んで来た。乾杯直前に、島岡がオーイと村山を呼び「選手においしいものを食べさせろ」。お祝いを贈った。村山忠三郎はこのときの島岡心づくしの祝儀袋を湿気で痛めたら申し訳ないと、上質な和紙の大相撲の番付表に包んでいまも大事に持っている。布施は小枝に、村山の素朴で力強い千葉の野球を学ばせたかった。村山には小枝の、気鋭、燃えるようなヒットエンドランの積極野球の闘志を味わせたかった。そういえばアマチュア野球の名審判、明治高、明大54年卒の郷司裕は“小枝の試合はここというときにヒットエンドランがあるぞ。念のために…”と審判団に話していた。

「雨でも行きます」。村山がそう言って日大三高グラウンドでの練習試合の日取りが決まった。

 第1試合の球審は、若き日の現日大三高監督、小倉全由。小倉は初対面の選手には「オレ、補欠だったんだよ」と話しかけるが、千葉県九十九里の出身なので敬愛の選手たちにはうれしいキャスティングであった。

 第2試合が終わると合同練習。村山と小枝が話し合って、選手はハダシになってグラウンドの土を踏みしめて歩いた。壮観だった。小枝はこうして監督3年目の夏、西東京で勝ち79年の第61回大会出場を決めた。日大三高にとって17年目の慶事だった。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)

最終更新:8月21日(日)16時49分

東スポWeb