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なぜタミヤはクオリティの高い商品を生み出し続けられるのか?

ITmedia ビジネスオンライン 8月22日(月)7時16分配信

 前回の連載記事で、ミニ四駆のブームがどのようにでき上がっていったのかについて、一関係者の視点から舞台裏をお話した。その中で成功の要因の1つに「おもちゃではなく、タミヤだった」からだと述べた。

【当時のタミヤ 企画部デザイン室の様子】

 そこで今回は、タミヤという会社がいかにしてクオリティの高い、そしてクリエイティビティに富んだ商品開発を行っているのか、そのバックグラウンドに触れておきたい。

●クリエイターを培養するタミヤ

 タミヤに入社後、筆者が配属された企画部デザイン室では、新入社員実習を終了した後も配属先実習と週次の課題が続いた。取材や製品撮影に備えてのカメラ実習では、撮影の手順にとどまらず、暗室での現像、ベタ焼き、紙焼きまで叩き込まれる。週次の課題は、デッサン+淡彩、レタリング、新聞広告原稿のリレイアウト、テーマを課されたモノクロ写真作品の提出まであった。

 その提出先は、このデザイン室の顧問として、星のマークのロゴからパッケージデザインなどの意匠全てをプロデュースし、タミヤのci(corporate identity)を確立した田宮督夫(たみやまさお)先生だ。課題のデキがいまいちだと、痛いほど眼目を突かれて叱られるが、目の前でそのノウハウやセンスを注入してもらうことができたし、関心を示すことには数歩先を見据えて「やってみなさい」と機会を与え、スタッフ一人一人の才を伸ばそうとしてくれる親のような存在だった。

 クリエイティブにかかわる頂点と底辺とのダイレクトなリレーションと、作業レベルをきちんと底上げしようとする環境によって、現場の末端まで「タミヤデザイン」が充填(じゅうてん)されていくのだった。

 ここでは、タミヤの商品パッケージを象徴するスーパーリアリズムのイラストレーションも制作されるほか、スライドマーク(水に浸して模型に貼るシール)やデカールの制作、総合カタログ、資料写真集、タミヤニュースをはじめとする印刷物の原稿制作と編集が行われる。さらには、RCカーやミニ四駆のボディデザインのフィニッシュアップなどのID(インダストリアルデザイン)、イベントや展示会などの会場レイアウトやディスプレイを担当する人材も擁していて、タミヤの製品企画、印刷物、販促に関するアートワークの一式を一貫して手掛けているのだった。

 設計室、金型製作、木型製作、工作室など、他の部署のクリエイター陣も社内で一から教育され、良い意味での年功序列がまだ残っていたせいもあるが、職人の域まで習熟していけるような枠組みが備わっていた。

 枠組みついでの話になるが、でき上がった成型品(パーツ)をパッケージングするセット工場では、品質管理室が成型工場からの納品物をカートン単位で検品するのだが、キズや汚れはもとより、検体に少し光を当てないと見えないような離型剤の痕(あと)が確認されただけでも金型の管理状態を指摘して全て返品した。この作業は新入社員実習でも通る道で、成型品を見極めるエッセンスが注入される。ここで大半の社員はその状態を厳しく見る目を備えることができるのだ。

 タミヤのブランディングは、ブランドを企図して構築しようとする後付けのそれとは違って、こうした厳たる企業風土や企業資質によって成立していることを、他社や他業種の状況を見聞きしながら何年か経って思い知るのだった。

 余談だが、筆者にとってデザイン室のパッケージイラストレーターは、部署内の“花形スタッフ”の1つだった。新人1年目には、毎朝、イラストレーター陣が前日に使った何十枚もの白磁の絵具皿、水入れ、筆類をしっかり洗って、7時55分開始の朝礼までに各々の作業台に整えておくという徒弟タスクが現然としていた。これを続けるうちに、「いつか自分もパッケージイラストを手掛ける日がくるのだろうか?」などと思いを馳せた日もあった。しかし、半年も経たないうちに技能的に追いつけないことが身に沁みて、仕事のできる諸先輩の完成度やスピードに圧倒されては、自分を問い詰めて沈んでばかりいた。筆者はあきらかに落ちこぼれていたのだ。

●メディア対応

 毎週月曜日の朝には、スタッフ1人による発表(トーク)がローテーションで課せられていた。論題と用意する資料は、デザイン室の業務や業界に関連するものであれば自由だったが、よくまとまっていないと新人もベテランも一様に、田宮督夫先生に速攻で突っ込まれて撃墜された。

 諸先輩の発表には、国内外の他社製品の動向を共有する内容や、業界内の懸念事項についての考察が多かったが、新人の筆者は何の知見の蓄えもないので、当時のデザイナーズブランドや日用品メーカーの顧客獲得用グッズ、ノベルティをかき集めて、その狙いや販促効果の検証、新刊雑誌が出ればその媒体にアプローチする場合のPR施策を挙げるなど、あえて異端な提案をやった。

 ある期間、月次で問屋や二次店に営業部担当と同行することを命じられた。他社の商品情報や営業活動を把握して、設計室やデザイン室に向けたフィードバックが求められたからだ。今のようにスマホでサッと撮ったりできないので、ひたすら“こそこそモード”でメモを取りつつ、小売店に流す各社の商品情報(印刷物)をコピーさせてもらった。

 さらには、商談が終わったばかりの他社の箱板(ハコイタ:パッケージ見本)や白箱(シロバコ:化粧箱に入っていない製品のサンプル)まで拝借し、各社の商品の問屋評価を直接聞き込んで、その収穫を有り体にさらして社内にリポートした。スパイさながらだった。何を評価されるかも分からないまま、行く先々に転がっている情報を全て拾って帰る勢いで動いていた。

 しばらくして、日々の業務と併行して担当することになったのがメディア対応だった。タミヤ製品の撮影用完成品はデザイン室所管だった。いろいろなメディアからの貸出し依頼の窓口をやっていたので、「壊されたら怒られるあの仕事か?」と思っていたらまるで違った。メディアやエディター陣との円滑なパスを作って、タミヤの情報の落としどころを広げてみろという仕事だった。

 当時の玩具メーカーが繰り広げていた商品のキャラクタライズやメディア戦略は、筆者にとっても関心事でうらやましかった。ファミコン(ゲーム)のメディア戦略の動きもじわじわ始まっていた一方、タミヤのメディア戦略はとぼしく、筆者は玩具やファミコンと同じテーブルに同じぐらい模型を露出できなければこの業界では負けだと、生意気にも勝手に考えていた。

●古典的なメディア戦略とRCカー(ラジコン)

 そこでまずは、古くから親交のある模型専門誌やRCカー専門誌とのリレーション作りから始めた。特に「モデルアート」の井田彰郎さん(現会長)には、何も知らなかった筆者に出版事情も編集事情もあけすけに教えていただいたおかげで、いろんな理屈が腑に落ちていった。

 次に、ホビーのジャンル別に刊行していた大百科シリーズなどのムック(雑誌と書籍の中間にある本)を編集するプロダクションでは、情報が蓄積されると新刊がリリースされる動きが顕著だったので、たびたび往訪してはニュースを注ぎ込んだ。そして、ホビー企画と親和性の高い雑誌や、模型やラジコンを個人的に好きな編集担当者に直接アプローチできるようになると、発売前の完成品に直接触れてもらってはそのインプレッションをパブリシティ枠で扱ってもらった。これがやがて、媒体の特集企画に合わせた模型の完成品(改造例)やジオラマをタミヤ側で製作して、それを誌面展開するような踏み込んだコラボレーションも叶うようになっていく。

 リポート記事とのバーターで、発売前のRCカーのテストキットを複数の自動車専門誌などの出版社に提供し、各編集部がプライドをかけてレースに興じてもらう“プレス対抗レース”もこのころから計画的に展開した。リザルトが良かった出版社ほど編集作業のテンションも上がって、編集部内の模型やRCカーへの関心も確実に上がっていくのが分かった。

 模型=ディスプレイ……であることを純粋に見せる企画もあったが、絵的にもアクティブなRCカーのほうがウケは良く、取材の対象としても関心高く扱ってもらうようになった。静岡のタミヤサーキットまで遠征して取材してもらうことも当たり前に行われるようになった。この時点では、小学生やヤングアダルトのマーケットに直接影響が出るまでには至らないが、それまでに比べれば、タミヤのRCカーに関する情報の露出は格段に増えた。市場でもRCカーへの人気のうねりが見え始め、タミヤの主力商品としてのイメージも上がり、TV番組「RCカーグランプリ」(1984年10月~)の放映にもつながっていく。

 個人でニュース配信できるようなインフラなどない持代。メーカーの一担当者としての筆者が、一般公開する前の情報を携えてさまざまな編集部に伺うと、多くは寛容に迎え入れていただき、そのうち出版業界や編集の事情を交えた商品への意見やリクエストを聞かせてもらうようになった。地道に出版社へのアポをとって商品情報の伝播に多く動くことで、得るものも多かった時代だった。

●タミヤの「三河屋」になっていた

 当時のタミヤには宣伝部も広報部もないのに、筆者が出版社やその関係者を訪問するようになってしばらく経つと「宣伝部デザイン室」というそれらしい名刺を使うようになった。一日の出張でできるだけ効率よく複数の編集部に往訪するといった古典的なパブリシティ活動だったので、静岡から東京へ、肩に完成品入りのRCカーバッグを掛け、両手に資料一式を下げて新幹線に乗り込んだ。多いときは、出張は週に2~3回のペースになっていった。

 思わせぶりな名刺とは裏腹に、宣伝予算なんていっさい握らせてもらっていないので、AD(広告)とは全く切り離した純然たるパブリシティをもって、いかにして“模型”を効果的に露出し、各々の読者層に関心をもってもらうか腐心した。

 当然、アプローチの段階で門前払いされたり、事前にきちんと目的を伝えてあっても広告出稿の話しじゃないと分かった途端、突如舌を打って退席されたりもした。いろいろあったが、接していただいた多くの出版社の編集、宣伝、広告の方々からは、媒体別(ターゲット別)のマーケ施策やそのノウハウをうかがい知ることができて、今でも役に立っていることが多い。

 一方で、ある雑誌の編集長からは「三河屋さんみたいだ」と言われることがあった。顔を見て歌舞伎俳優の屋号で呼ばれたのではなく、御用聞きの意味だった。こちらの目的を全て理解した上で、広告出稿以上に助かることだと労われ、毎月定期的に来てくれと言われた。この仕事に自信を持って取り組める一言になった。

 実際、意図してADありきのコラボレーションは断じた。その編集部主動の企画でなければ製作協力する道理も立たないし、ホビージャンルの企画に広告臭が加わったら、双方に良いイメージが着かないと考えていたからだ。タミヤは出すべき時期や媒体には計画的出稿を行っていたが、広告費用に換算した額を遥かに超えるコストを掛けた製作協力は何度もあった。パブリシティであっても、むしろ手を抜かなかった。

 つい思い出してしまうが、東京でのこうした活動の際は、静岡を出て朝9時には都内の広告代理店に入って荷物を置き、そこを拠点にした。帰りはたいてい最終の新幹線に乗れなくて、今はもうなくなった東海道線の大垣行きで静岡に26時過ぎに着くパターンだった。それにも乗り遅れたときは、翌日鈴鹿で取材があるという自動車雑誌の編集者のクルマに乗せてもらい、明け方に静岡インターで降ろしてもらうこともあった。とにかく、何があっても7時55分には出社しなくてはならなかった。

 往訪先の編集部やエディターからのリクエストや反応をほどなく田宮督夫先生にフィードバックすると、次々と矢のように指示が飛んだ。他の部署にも指令が飛んだ。入社して何年も経たない筆者のような下っ端には重たい社内調整も、デザイン室全体で動いてもらうことが多くなっていった。いつの間にか「パブリシティ」が他部署を、会社を、巻き込んでいった。

 そうした中、RCカー、そして後にレーサーミニ四駆の大ヒットにつながる運命的な出会いがやってきた。(つづく)

(前田靖幸)

最終更新:8月22日(月)7時16分

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