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【シネマモード】“抱きしめる聖者”アンマが語る愛…『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』

cinemacafe.net 8月27日(土)13時0分配信

名作『男と女』から50年。名匠クロード・ルルーシュが、もうひとつの恋愛映画の傑作を誕生させました。運命的な出会いを経験した在インド・フランス大使夫人アンナと、映画音楽家アントワーヌが奏でる大人の男女の恋愛模様を描く新作『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』です。

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共にパートナーがいながらも、出会ってしまったふたり。アンナが、とある理由でニューデリー~ムンバイ~ケーララへの2日間の列車旅行に出ることを知ったアントワーヌが、ともにインドを旅するところから物語は大きく動き出します。アンナが旅する理由とは、夫の間に子どもができず悩んでいたため、聖者に会いたいとインド南部への巡礼を望んでいたから。アントワーヌも原因不明の頭痛に悩んでいたことから、彼女に同行することになったのです。

物語の鍵を握っているのが、抱擁によって世界の人々を癒し続けているインドの聖者シュリー・マーター・アムリターナンダマイー・デーヴィ。実は、本作に特別出演している“抱きしめる聖者”が7月18日から20日まで、来日していました。そこで、“アンマ(お母さん)”と世界中の人々に慕われている彼女に会いに行ってきました。

1953年、南インドの貧しい漁村に産まれたアンマは、幼い頃、周囲にいる貧しい人々の苦しみを目の当たりにし、思わず隣人たちを抱きしめたそう。そこから、自然に人々を抱擁する“ダルシャン”という行為が始まりました。彼女の抱擁を求めインドを訪れる人は多数。45年間にわたって世界中を訪れ、延べ3,600万人以上の人を抱きしめてきました。国内外で国際的災害支援・自立支援活動を展開する慈善活動家としても知られています。

劇中、アンナとアントワーヌがダルシャンを受けるシーンは、本作のハイライト。そこで、私も体験してきました。実は9年ぶり2回目のダルシャン。来日は27年目26回目というアンマが2007年に来日した際、取材に伺ったのです。その時と全く変わらない、あたたかい笑顔で迎えられ、ぎゅっと抱きしめられ、まるで母親が幼子の不安を取り去るかのようにあやされます。ただそれだけですが、大地に抱かれるような安心感と、耳元で囁かれる「愛しい娘」という快い響きは、心にじんわりしみわたるよう。あっという間の出来事だった前回に比べ、落ち着いていられた今回でしたが、肉体的接触が少ない文化の中で暮らす私には、今回もとても親密で特別な経験でした。

世界を抱きしめ続けるというシンプルな行為。だからこそ、アンマの中にある慈悲深さを実感できるのかもしれません。肉体的接触は身体の痛みを軽減するという研究もあるだけに、抱きしめられることで軽くなる心の痛みもあるはず。見ず知らずの人を抱きしめ続けるのは時に苦しくもあるでしょう。それでもダルシャンを続けるアンマに、直接話を伺う貴重な機会をいただいたので、全文をご紹介します。そこには、価値観の違う者たちがいがみ合うことなく、共存するための大いなるヒントが。ご興味がある方はぜひ。


――抱擁を通して、来た人、また来たいけれど来られない人に伝えたいことは?

アンマ「愛は、全宇宙を結びつけている根本的な要素です。愛は、わたしたちの力の源でもあり、純粋さの源でもあり、調和の源でもあり、一体性の源でもあります。

わたしたちは本来、愛の中に生まれ、愛の中で生き、愛の中で肉体を去るはずの存在です。でも実際には、ほとんどの人がそうできていません。人々は、純粋な愛を経験することなく生き、死んで行ってしまいます。わたしたちがこの世界でしているあらゆることは、霊性修行であれ、俗世での活動であれ、日々の義務であれ、すべて愛が原動力になっています。わたしたちはそれを、責任とか、情熱とか、決心とか、様々な名前で呼んでいますが、どのような名前で呼ぼうとも、それは愛なのです。その背後にある力は、愛なのです。その愛こそ、わたしたちが目覚めさせなくてはいけないものです。人々の内に、ほんの少しでも愛を灯すことができれば、多くの問題を簡単に解決できます。

愛には障壁がありません。愛は、この世界のあらゆる人間や生き物が理解できる、唯一の普遍的な言語です。愛を通せば、何でも伝えることができます。愛は、最古の旅人であり、最高のコミュニケ―ション言語です。アドレスを書くと電子メールが届きますが、愛は、人と繋がるための、最も理想的で力のあるアドレスです。愛は、ラジオの電波にも似ています。ラジオ局の近くに住んでいても、自分のラジオの周波数を合わせないと、番組を受信できません。

愛はわたしたちの本質です。本質ですから、全く変えることができません。でもわたしたちは、そのことを知らず、その愛が見えなくなっています。それは、ホコリで覆い隠された鏡に似ています。鏡はずっと鏡のままですから、ホコリを取り除けば、光を反射するという鏡の本質を取り戻すことができます。それと同じように、愛は常に、わたしたちの内にあるのです。

太陽から遠く離れていても、地上の蓮は、花開きます。愛に距離は関係ありません。電話を使うと、遠く離れた人と繋がることができます。そのとき電話番号が役に立つように、愛によって、アンマの愛やエネルギーが、人々のハートに届くのです。

手紙を出すことを相手が知らなくても、相手の住所を書けば届きます。手紙を送るその決意と同じように、アンマは、会場に来た人に対しても、来られなかった人に対しても、同じようにサンカルパ(決意)を持っています。ですから、会場に来られなかった人にも、愛は平等に届きます」。

――国籍、宗教、人種を問わず、日々多くの方が救いを求めてアンマの元に訪れますが、彼らとの出会いから、人間の幸せとは何だと考えていますか?

アンマ「真の幸せとは、完全に満ち足りることです。お腹がすいたときに、たくさん食べてお腹がいっぱいになる、といった満足感は、一時的で、肉体的なものです。

しかし、本当の意味で内的に満ち足りると、環境や状況が良くても悪くても、
内面がそれに影響されなくなります。例えば、お腹が空いても、内面はそれに影響されず、体が疲れても、活動の意志が影響されなくなります。

どんな状況でも、心が完全に制御されていて、静かなままでいるようになります。
心が完全に静かなその状態が、本当に満ち足りた状態です。それは完全に、永遠に確立された、至福に満ちた意識状態で、そこから後戻りすることはありません。

その完全に満ち足りた状態に至るまでには、様々な段階があります。それは、愛に様々なレベルがあるのと同じです。人によって、その梯子の一番下にいたり、二段目、三段目、四段目にいたり、一番上の段にいたりします。

完全に満ち足りた至福の意識状態に達すると、あらゆる状況を楽しむことができます。外界の状況ではなく、楽しむこと自体が、中心になるのです。例えば、今日は豪華な宮殿に住んでいて、召使が大勢いて、一日に三度、豪華な食事を持ってきてくれて、あらゆる設備がそろっていて、贅沢な暮らしをしているとします。そして次の日には、自分が召使になって、粗末な小屋に住んでいるとします。

宮殿に住んでいる時には、美しいシャンデリアやイタリア産の大理石や、エアコンや美しく柔らかいベッドなど、その宮殿のすべてを楽しみます。そして次の日に粗末な小屋に住むことになって、一日中何も食べられなくても、その小屋での暮らしを本当に楽しみます。そのように、外界ではなく、至福の中ですべてを楽しむことが、人生の中心になるのです。

それは、熟睡中の状態に似ているところがあります。ただし、熟睡中は意識がありませんが、真に満ち足りている至福の意識は、完全に目覚めている、という違いがあります」。


時代や文化が違っても、人間が心から望むもの、本当に満たされるために必要なものとは、何も変わりはない。どんなに物質的に満たされていても、人は愛なしに生きるとき、虚しさを感じる。映画『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』が伝えるメッセージと、アンマが抱擁で伝え続ける願いは、見事にシンクロしていると感じられる体験でした。

アンマによる回答/特定非営利活動法人 国際チャリティ協会アムリタハート

最終更新:8月30日(火)13時55分

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