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徳川家臣団に嫌われながらも家康に尽くした本多正信の素顔

ITmedia ビジネスオンライン 8月27日(土)6時38分配信

編集部F: 先週(8月27日放送)の『真田丸』で、北条家の家臣だった板部岡江雪斎が久々に登場して、スパイ的な活動をしていました。それを裏で操っていたのが徳川家康の忠臣、本多正信でした。真田丸の中では正信の老獪ぶりが随所に光りますね。

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小日向えり: 真田丸を見ていても分かるように、正信はとにかく家康からの信頼が厚い家臣でした。元をたどれば、家康も正信も同じ三河武士で、幼少のころからの付き合いでした。

 正信の方が家康よりも5つ年上で、家臣というよりも、兄貴分、家族のような存在だったようです。唯一、帯刀したまま家康の寝室に出入りすることを許されていました。「三国志」で例えると、曹操と夏候惇みたいな関係性ですね。

 ただし、三河で一向一揆が起きたとき、正信は一向衆についてしまい、家康と敵対することになりました。一揆の鎮圧後、正信は三河を出奔して長らく他国を転々としていましたが、嘆願して徳川家に戻ることができました。これが正信の人生のターニングポイントだった気がします。一度は裏切ったのにもかかわらず家康に情けをかけてもらったから、その後、懸命に尽くすようになりました。

編集部F: 同じ徳川家臣の本多忠勝とは同姓ですが、親族とかではないのですよね?

小日向: はい、特にそういった関係はないですね。むしろ忠勝にしてみれば、一緒にされるのが嫌だったようです。三河武士はどちらかと言えば知力よりも武勇に長けていた者が多かったので、正信と相容れない家臣は多かったです。例えば、徳川四天王の一人である榊原康政は、正信のことを「腸が腐っている」などと散々な悪口を言っていました。

 でも、家康は正信を信頼しているし、一人の友として大事にしました。特にかつて家康の懐刀だった石川数正が、小牧・長久手の戦いの後に出奔し、豊臣秀吉の家来になってからは、正信は軍師的な役割としていっそう頼りにされるようになりました。

編集部F: 何だか石田三成に似ていますね。武断派の加藤清正や福島正則には嫌われていたけど、気にせず主君のために尽くしたところが。

小日向: そうそう、正信も三成のことは認めていたようです。関ヶ原の合戦後、三成の嫡男である重家を家康がどう処分しようか考えていたとき、赦免するよう助言し、重家を助けました。もっとも、その際に「三成のおかげで豊臣家臣団を一掃できたので、三成には感謝したほうがいい」などと皮肉を言ったそうですが(笑)。ただ、同じ文治派の気持ちは分かり合えたのかもしれませんね。

 このように正信はいつも家康を諌める忠臣でした。例えば、家康が江戸の風紀を取り締まろうとしたとき、江戸での生活がおもしろくないものになってしまうと、大名たちを参勤させるのが難しくなり、反乱が起きる原因となってしまうので止めるように言いました。また、家康が幕府の仕組みなどあらゆることを決めようとしたところ、「秀忠(2代将軍)や家光(3代将軍)らがすることがなくなってしまうので、一代で何でも終わらそうとする必要はない」と説きました。

編集部F: まさに家康や江戸幕府を支えた功労者ですね。やはり本多家も大きくなったのでしょうね。

小日向: いえ、実はそんなことはないのですよ。こんなに貢献しているのに、正信はずっと1~2万石でした。ダーティーなイメージがあるけど、素顔は欲のない倹約家だったのです。晩年、息子の正純に対して「3万石以上は賜るな」といった遺言も残しています。

 ところが、正純の時代になって石高は十数万石になりました。そしてまた、秀忠との関係が悪化してしまったため、最後は失脚しました。

編集部F: 欲を出さずにお父さんの言い付けを聞いておけばよかったのに……。ちなみに、正信はいつごろまで生きたのですか?

小日向: 1616年4月に家康が亡くなると、主君の後を追うように6月に死去しました。家康はとても長生きしたと言われていますが、正信の方がもっと長く生きたのですよ。

編集部F: 家康を最後まで見届けたのですね。

小日向: 真田丸で描かれている正信は老獪だけど、真田信繁のことを助けたりするなど、けっこう粋な面もあります。ただの悪いヤツではないですね(笑)。

最終更新:8月27日(土)6時38分

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