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佐世保大空襲墓銘碑除幕へ

長崎新聞 8月29日(月)8時54分配信

 太平洋戦争末期の1945年6月に起きた佐世保大空襲の犠牲者「墓銘碑」の除幕式が31日、佐世保市熊野町の中央公園などで開かれる。犠牲者数は今年の再調査で、従来の発表より12人多い1242人が確認された。新たに判明した1人が永岡勝人さん(享年22歳)。妹の阿部多惠子さん(77)=神戸市=は「兄の名、生きた証しが佐世保の地に残るのが本当にうれしい」と話す。

 多惠子さんは台湾出身。広島県出身の両親と兄2人の5人家族だった。長兄の勝人さんは15歳も年上。物心ついた時には下宿しており、遊んだ記憶はない。

 戦況が悪化してきた1943年、台湾では米軍上陸のうわさがささやかれた。父は長男だけでも“安全な日本”に帰そうとした。10月、勝人さんは海軍高雄海兵団に入団。自宅で壮行会を開き、家族写真も撮った。そのとき「多惠子、しっかり勉強するんだよ」と言われたのが最後になった。

 その後の消息はよく分からない。後に次兄から聞いた話によると、勝人さんは静岡県の浜名海兵団に移り、45年4月に技術少尉に任官。佐世保海軍工廠(こうしょう)に務めた。空襲はわずか3カ月後。下宿していた光月町近くの神社で焼夷(しょうい)弾の直撃を受け、亡くなったという。

 7月、自宅に勝人さんの戦死通知が届いた。父は部屋にこもり、数日間出てこなかった。終戦後の46年、広島県へ引き揚げた。葬儀を済ませ墓も建てたが、遺骨はない。「兄はひとりで佐世保にいる」と、ずっと気掛かりだった。

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 多惠子さんも高齢となり、元気なうちに佐世保を訪れようと数年前から空襲を調べ始めた。今年3月、佐世保市役所から「佐世保空襲を語り継ぐ会」を紹介され、遺族と名乗り出た。

 勝人さんから家族宛てに届いたはがきが一通ある。病弱な父には「薬入手次第御送り致し-」とつづり、家族の健康を願う言葉のほか「多惠子」の名も何度も記されていた。「何とぞよろしくって、幼いのに一人前に扱ってくれて…。本当に大切に思われていたんだな」。多惠子さんは文章を読み返し、涙を浮かべた。

 墓銘碑には勝人さんの名も刻まれる。31日の除幕式は、71年越しにかなう“墓参り”だ。手を合わせた時には、こう呼び掛けようと思っている。「お兄ちゃん、今まで一人で寂しかったね。つらかったね。これからはここで、心安らかに眠ってください」

 ◎佐世保大空襲 佐世保空襲犠牲者遺族会などによると、1945年6月28日深夜から翌29日未明にかけ、米爆撃機141機が焼夷弾約千トン余を投下。当時の市内全戸数の35%に当たる約1万2千戸が全焼し、約6万人が被災した。犠牲者数は墓銘碑の設立委員会が名簿を再調査し7月にまとめた。

長崎新聞社

最終更新:8月29日(月)8時54分

長崎新聞