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【あの時・不死鳥 美空ひばり】(1)「初めて」って言うと力がみなぎってくる人だった

スポーツ報知 8月29日(月)14時0分配信

■88年 東京ドーム復活ステージ

 1988年4月11日、日本のコンサート史に一つの伝説が刻まれた。病気療養中だった美空ひばり(当時50)の東京ドームでの復活のステージ。「不死鳥コンサート」と呼ばれた歴史的な一夜。自力で歩くことさえ困難だった病床のひばりはなぜ、あの場所で歌うことを選んだのか。

■歌うことが生きてる証し

 87年4月22日、地方巡業中のひばりは足腰の不調を訴え済生会福岡総合病院に緊急入院した。日本コロムビアは会見し「両側大腿(たい)骨骨頭壊死と慢性肝炎」と診断を明かしたが、本来の病状は深刻だった。股関節がボロボロになり、歩ける状態ではなかった。輪をかけるように肝臓の数値は悪かった。母や実弟を相次いで亡くし、悲しみを紛らわす酒量が増えていたことから肝硬変を引き起こしていたのだ。

 当時高校1年だった長男・和也(現ひばりプロ社長)は振り返る。「両足は牽(けん)引している状態、肝臓も悪くてガクッときていた時。東京から福岡の病室に向かったら、まず泣かれました。おふくろにとっても初めての入院。これからどうすればいいのか、不安も抱えながらの日々でした。あの人にとっては歌うことが自分の生きている証しでしたから…」

 希代の天才歌姫の療養に、ファンもマスコミも揺れた。情報が錯綜し「再起不能」説も流れた。傷ついた翼。ひばりが再び高く飛ぶためにはどうすればいいのか。スタッフは議論を重ねた。日本コロムビアでひばりのプロデューサーを務めていた境弘邦は語る。「一番ひばりさんが喜ぶことってなんだって全員で頭をひねった。『お嬢さん、この仕事は国内で初めてです』とか『歌謡曲では初めて』って言うと、力がみなぎってくる人だった」

 そのころ、竣工(しゅんこう)中の東京ドームを再起の舞台にというオファーが舞い込んだ。スタッフからコンサートのプランを聞いたひばりは快諾。会場は野球と芸能、双方に顔が広かった報知新聞社長・深見和夫(当時)が手配した。ひばりの先の見えない闘病は、復活を前提にしたものとなった。歩行訓練も始まる。和也の目にも、弱々しかった母の背中が、使命をもった歌手の背中へと変わっていくのが分かった。「病室ではCDウォークマン、楽譜を持ち込み、持ち歌以外のさまざまなジャンルの曲も聴いていた。チャレンジャー精神がわき上がってきていました」

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最終更新:8月29日(月)14時0分

スポーツ報知