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相模原殺傷事件を問う(1)重度障害者は生きている意味がないのか (矢野宏/新聞うずみ火)

アジアプレス・ネットワーク 9月1日(木)6時0分配信

◆重度心身障害児次節「びわこ学園」元園長 高谷清さん(78)/お互いを大切にしたい

19人が死亡、26人が負傷した相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件からまもなく1か月。「障害者は生きていても意味がないから殺した方がいい」などの植松聖容疑者の言い分が多くの人に衝撃を与えた。重度障害者は生きている意味がないのか。滋賀県の重症心身障害児・者施設「びわこ学園」元園長の高谷清さん、堺市の障害者自立学舎「しっぷ」施設長で自身も障害を持つ菊野健一さん、知的障害の息子を持つ奈良県五條市の岩井恵照さんそれぞれに話を聞いた。 (矢野宏/新聞うずみ火)

「まさおくん、体調はどうや。苦しくないか」
元びわこ学園長の高谷清さん(78)は診察を終えて病棟を訪ねると、ベッドに横たわる重度障害者一人ひとりに声をかけていく。返事はないが、高谷さんは眼鏡の奥から優しいまなざしで見つめ、しぐさや息づかいにまで注意を払う。

まさおくんと呼ばれた男性は知的、身体障害が重く、びわこ学園に5歳で入所して以来、寝たきりで過ごしている。自力で呼吸ができないため、喉の一部を切開して直接チューブを気管に通し、人工呼吸器に頼っている。
動けないし、しゃべることもできない。
曲がった手足は、意思とは関係なしに緊張し、てんかん発作も起こる。

30歳を過ぎているが、働くことはおろか、自分の身の回りのこともできない。生きるすべてに人の助けがいる。
だが、そこにはかけがえのない一つの「命」がある。

まさおくんの手を握っていた高谷さんがこちらを振り返り、こう語った。
「許されへんやろ、こんな一番弱い命に手をかけるなんて」
その目には怒りと悲しみが満ちているように見えた。

「障害のあるないの違いはあっても、かけがえのない命は、人間みな同じ。彼らが粗末に扱われるということは、すべての人の命が粗末に扱われるのと同じことなんやで」

◆重い障害のある子どもたちのことを知ってもらい、移転資金も集めようと企画した琵琶湖イベント

びわこ学園は1963年、西日本で初めての重症心身障害児施設として大津市と京都市の境、長等山の麓に設立された。 京都大病院の小児科医だった高谷さんが最初に訪れたのは開園から3年後のこと。

 「重い障害のある子がいる部屋に入ると、ベッドに寝たままの子もいるし、畳の部屋で横になっている子もいた。手足をあらぬ方向に向け、硬く突っ張っていた。声はなく、うめき声に似たものがあったのを覚えているわ。異次元の世界が広がっているように感じたなあ」

治療した子が、その後も健やかに過ごしているか気になる。県内の病院を転勤しながらも学園の子たちへの思いが募り、40歳の時に転職を決めた。

びわこ学園は立地条件が悪く、老朽化が進んでいた。
その後、園長に就任した高谷さんは北欧などの施設を視察し、これまでのように大部屋で隔離するのではなく、少人数がグループで暮らす生活に近づけたいと考えた。
だが、資金が足りない。

その中で、重い障害のある子どもたちのことを知ってもらい、移転資金も集めようと企画されたのが「抱きしめてBIWAKO」だ。

1987年11月8日の正午から1分間、琵琶湖一周250キロを25万人が手をつなぐために、参加費1000円を持ってきてもらうという一大イベントだった。

実行委員長に就任したのは、大津市にある養護施設「湘南学園」園長の中沢弘幸さん。同じ福祉とはいえ、養護施設の園長がなぜ、びわこ学園の移転のために「抱きしめてBIWAKO」を提案したのか。

当時、黒田ジャーナルの記者として、中沢さん自身に聞いた「折り鶴」をめぐるエピソードがある。
湘南学園の子どもたちの多くは最も信頼していた親に捨てられ、大人への不信感を募らせている子が少なくなかった。小学5年生の麻美もその一人だった。すねたような目で職員をにらみ、言うことを聞かない。

「自分らだけがこの世の中で一番不幸やいうような顔するな。お前らよりずっと不幸な子がおるんや」と、中沢さんが麻美らを連れて行ったのがびわこ学園だった。

麻美の前には、心身に重い障害のある寝たきりの少女がいた。
「鶴でも折ってやれ」

中沢さんに言われるまま、麻美が折り紙で鶴を折り、少女のてのひらに乗せた時、折り鶴は筋肉の緊張のためにくしゃっと握りつぶされてしまった。
性格の荒い麻美ゆえ、カッとなって手を振り上げるのではないかと中沢さんらがヒヤッとした次の瞬間、麻美は折り紙をもう1枚取り出し、鶴を折り始めたのだ。

その光景を見て、中沢さんは気づく。
「重い障害のある子は弱くて何もできないと思っていたが、大きな力を持っているんや。私ができなかった麻美の心を開いてくれた。この子の優しさを引っ張り出してくれたんやから」

同時に、「重い障害のある子どもたちが大事にされる社会は自分たちの命を守ることであるのだ」と。

メッセージ参加を含む26万人が参加した「抱きしめてBIWAKO」から4 年後、第一びわこ学園は草津市へ移転し、木を基調とした温かみのある宿場町風の施設に生まれ変わった。
現在、草津市と野洲市の施設などに約230人が暮らし、約140人が通ったり、訪問介護を受けたりしている。
移転から6年後に高谷さんは退職したが、今でも非常勤で週1回の外来診療をこなしている。

びわこ学園の玄関には、創設者で「日本の障害者福祉の父」といわれた糸賀一雄の写真が飾られている。糸賀は「この子らと家族がもし不幸であれば私たちの社会もまた不幸である」と考え、「この子らを世の光に」と提唱した。

その薫陶を受けた高谷さんは、相模原事件について、「容疑者個人の問題としてすませてはいけない」と述べ、こう訴える。

「大事なことは、障害があろうとなかろうと、その人を個人としてその人格を尊び、そのことが保障される地域、社会を築いていくこと。それが私たちを守ることでもあるんやで」 (矢野宏/新聞うずみ火)

最終更新:9月1日(木)15時41分

アジアプレス・ネットワーク

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