ここから本文です

“ゴジラで話題 製作委は悪者か”記事についての返答

オリコン 9月4日(日)8時40分配信

 先週発信した『シン・ゴジラ』の単独製作をめぐる私の記事に、いろいろな意見をいただいている。まず肝心要のことをひとつだけ言っておきたい。私は、製作委員会を否定していないということだ。ここは強調しておく。誤解というか、論議の端緒が、私の製作委員会の否定論から起こっている気がするからである。中身をよく読んでいただきたい。

【初代ゴジラの写真も掲載】“製作委員会の功罪”という見出しで問題になった元記事

◆中身の歪曲化がいつの間にか拡散

 否定論と思われた理由のひとつとして、見出しが影響しているかもしれない。見出しは、「東宝“単独製作”『シン・ゴジラ』で露呈した製作委員会方式の功罪」とあった。「製作委員会方式の功罪」なぞ、私はどこにも書いてはいない。見出しは、私がつけたわけではない。サイトにアップされた時点で、それを認識した。その後の時点で、中身と見出しが違うとの訂正の要求はしていない。要求しないほうが悪いと言われれば、それまでである。

 YAHOO!ニュースで発信された「『シン・ゴジラ』をネタに製作委員会方式の良し悪しを問うのは不毛だ」という見出しをもつ境治氏の文章でも、そこが気になった。「良し悪しを問う」ことなど、私は全くしていないからである。見出し=キャッチに、踊らされてはいないか。見出しが一人歩きをし、中身の歪曲化がいつの間にか拡散していき、誤解がはびこる。そんなことがなかっただろうか。

 「ORICON STYLEで、『シン・ゴジラ』の製作体制について発信した。本作は東宝の単独製作だ。数社参加型の製作委員会方式が主流の今の映画界では、これは全く稀である。野心的な中身を推進し、1社で製作の全責任をもつ。企画にバイアスがかかりがちな委員会への強烈なアンチテーゼとなろう」。

 これは、私がツイッタ―上で流した文章の全文である。私が主張したいのは、それ以上でもなければ、それ以下でもない。「企画にバイアスがかかりがちな委員会(方式)」と、「(それへの)強烈なアンチテーゼ」ということである。これが、「功罪」とか「良し悪しを問う」なんかでないことは、一目瞭然だろう。少し、整理してみよう。

◆問題作や官能的な作品には微妙なバイアスがかけられる

 ORICON STYLEの本文では、こう書いた。「製作委員会方式は、そもそものスタートから、企画にバイアスがかけられることが多いのではないかと。各企業に出資を募る以上、自ずと安全パイ路線、つまり危ない要素がある題材や、過激な中身をもつ企画は排除される」。続けて、こうも書いた。

 「製作委員会方式はこれからも、当分の間は邦画製作の主流であり続けるだろう。製作のリスクヘッジ、宣伝面での効果など、多くのメリット部分が、まだまだ存分にあるからだ」。「その弊害は実はあまり目立たないところに出てくる。最大公約数的な企画の無難さ、凡庸さのなかから、そつのない娯楽作が連発されていくことである」。最後部分は、さきの文章のダメ押し的な言いようである。ここだろうか、ひとつのポイントは。

 境氏は「単独出資のほうがリスクが高い分、臆病になる可能性もある」に続けて、「大高氏は、いま無難な企画が多いことを憂えているのだと思うが、委員会方式のせいではない。言うとしたら、いま東宝の自社製作作品は野心的だ。略。これらは委員会方式だ」と書く。

 私が言っている野心的な中身とは、意味が違うのだ。『バクマン。』や『アイアムアヒーロー』は野心的でないことはないが、私は野心的の意味を、広義に使っている。とくに指摘したいのは、政治的、社会派劇的な作品、犯罪に大きくからんだ問題作や男女の愛欲劇などを描く官能的な作品の類である。そのような企画になると「各企業に出資を募る」行動以前に、微妙なバイアスがかけられるのだ。

◆『シン・ゴジラ』きっかけに邦画のマンネリ化傾向が揺り動かされたらおもしろい

 これを私は、「イメージ」で言っているのではない。ある程度の製作規模をもつ委員会に関わっている映画関係者から聞いている。政治的な要素がからんだ作品や社会派劇的な“娯楽作”などは、俎上に乗せることが非常に少ないというのだ。それらは、ハナから受け入れられないとの自粛的な判断が、各企業にできているからである。ヒットの可能性が低いと見られれば、納得もできるが、果たしてそれだけかどうか。もちろん、監督や俳優の布陣しだいで、さきのような野心作の類が上がってくることもあるだろう。だが、そんな“野心的な”作品が近年、邦画のなかでいったい何本あったのか。まさに、それを「問うている」のだ。

 政治的、社会派劇的な作品の枠組みさえ、ぶっ壊したかにも見える、まごうことなき野心作である『シン・ゴジラ』の単独製作をひとつのきっかけに、今の邦画製作の主流である製作委員会方式の作品群に見えるマンネリ化傾向が揺り動かされたらおもしろい。言いたいのは、それ以上でも、それ以下でもない。単独、委員会のどちらかの是非ではないのだ。委員会方式に限らず、何事も長く続けば、マンネリ化は避けられまい。それは、揺り動かす必要があるのだ。

 他の論点もいろいろあったが、以上で止める。ただ、全く未知の境氏の“反論”は意外でもあり、貴重であったことは、ここで言っておきたい。感謝している。邦画の中身の幅は、今のままでは物足りない。もっともっと、冒険、チャレンジ精神旺盛に、今の時代を撃つような作品の出現を期待する。これは、“娯楽”と矛盾しない。そのためには、いくつもの製作体制が検討されていいのではないか。さて、今回の見出しはどうなるのか。
(文:映画ジャーナリスト・大高宏雄)

最終更新:9月4日(日)8時55分

オリコン

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由
昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。