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大女優ゆえ反発も 左時枝さんが語る姉・幸子さんからの遺言

日刊ゲンダイDIGITAL 9月5日(月)9時26分配信

「武士の一分」「母べえ」などの映画や、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」など多くの作品で活躍してきた左時枝さん(69)。名だたる俳優との出会いがあったが、もっとも影響を受け、尊敬するのは、やはり映画スターだった姉の故・左幸子さん(享年71)だ。

  ◇  ◇  ◇

 私を女優へ導いたのは姉でした。小学校6年生の冬、東京ですでに大女優として活躍していた姉に、「映画に出られるから、とにかくいらっしゃい」と言われ、学校を休んで故郷富山から上京したんです。映画というのは山本薩夫監督の「荷車の歌」で、姉はヒロインの娘役。監督はその少女時代を演じる子供を探していたんです。それがデビュー作になりました。

 当時は映画に出られることより、東京に行って姉たちに会えることのほうがうれしくて。私は8人きょうだいの末っ子。当時、私と古美術商だった父だけが富山で暮らし、兄姉7人はみな東京へ出ていたんです。母も兄と姉の面倒を見るために東京ですから、みんなで姉(幸子)が買った東京・練馬の一軒家で暮らし、姉の活動に協力していたんです。きょうだいたちはファンレターの返事を書いたり、料理をしたり、運転手をしたり。

 私も中学2年から東京で暮らし、新聞や雑誌の姉の記事をスクラップしていました。上から2番目で長女の姉とは19歳離れていますから、初めて近くで暮らすようになったわけです。

 いや、厳しい人でしたよ。箸の上げ下ろしからうるさくて。憧れより怖い存在。姉は家族を背負っているという責任感が強かったんでしょうね。ただ、厳しかったけど、私たちきょうだいに尽くしてもくれました。学費を出すのはもちろん、私たち全員の洋服を青山の洋服屋さんで仕立ててくれていましたから。

 中学、高校に通いながら映画にポツポツ出るうち、表現する喜びを覚え、本格的に女優になりたいと思うようになりました。高校を卒業するとき、姉に「劇団に入る」と報告したら、「女優になるなら体育大学に行きなさい」と。姉自身が東京女子体育大学(東京女子体育専門学校=当時)を出ていたんです。私はのちのち、なぜ姉が体育大を勧めたのかがわかりました。体育大へ進むことで自分の体を知ることができて、女優にとって大切な感受性も磨かれたと思うからです。

■姉の作品を見なかった時期も

 姉の言う通りにしたものの、当時の私は反抗期。大女優の妹なので出発点として恵まれてたとはいえ、姉が何もかも私の一歩前に杖をつき、転ばないようにしているみたいで、心の中では「勝手にさせてよ」ってずっと反発していました。姉の作品を見なかったりして。素直になれたのは45歳ぐらいになってからですね。

 姉は2001年に肺がんで亡くなりました。その半年ほど前、私は黒木和雄監督の映画「美しい夏キリシマ」の撮影で九州へ行くことになり、姉の入院する病院へお見舞いに行ったんです。姉が「命懸けでやってきなさい」と言うからオーバーよ、と思いましたが、必死さが顔に出ていたんでしょうね。さらに「あんたはわかってないわね」とピシャリと言われてしまいました。

 最近もDVD屋さんに行き、姉の作品が目に入ったら手に取るんです。「女中ッ子」「飢餓海峡」「幕末太陽傳」……。姉は本当に奇麗で、いい芝居をする。なんでそれを生きているときに言ってあげなかったんだろうと悔やまれます。「命懸けでやりなさい」と言われたのが遺言だと思っています。

最終更新:9月5日(月)9時26分

日刊ゲンダイDIGITAL

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由
昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。