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パラコラム「義足で支える5度目のパラリンピック 常識を覆した臼井の競技用義足」

カンパラプレス 9/5(月) 18:10配信

 アスリートの義足づくりを手がける義肢装具士の臼井二美男にとって、リオデジャネイロ大会(9月7開幕)は5度目のパラリンピックとなる。初めて選手に帯同したのは2000年シドニー大会。陸上走り高跳びT44クラスの鈴木徹(現・SMBC日興証券)と、当時は100mに出場し、現在はアンプティサッカーで活躍する古城暁博の義足調整のためだった。
「その頃はまだ選手団の一員としてではなく、全くの単独でしたから、競技はスタンドの観客席から見ました。パラリンピックは障害者スポーツ大会の世界最高峰というだけあって、日本の大会とはスケールが段違い。華やかで驚きましたよね。選手とは唯一、練習で使うサブトラックで接触できたので、そこで義足の調整をしました」

 少し意外な気もするが、日本人の義足選手がパラリンピックの陸上競技に出場したのは、シドニー大会が初めて。それまでは「レーサー」と呼ばれる車いす種目にしかエントリーしていなかった。そのためシドニー大会は臼井にとっても、二人の選手にとっても未知の挑戦だったという。特に鈴木は19歳とまだ若く、しかも走り高跳びを始めて半年しか経っていなかったこともあり、本番では場の雰囲気にのまれて十分に力を発揮できなかった。
「鈴木くんにとっても、僕にとっても、ほろ苦い経験」とシドニー大会を振り返る臼井。しかし、これが起点となって、義足選手のパラリンピック参加は大会ごとに増え、次の04年アテネ大会には3人、08年北京大会には4人、12年ロンドン大会には8人の選手が陸上競技に出場。北京では、走り幅跳びT42クラスの山本篤(スズキ浜松アスリートクラブ)が銀メダルに輝き、日本初のメダル獲得に至った。

常識にとらわれず独学で競技用義足を製作

 義足づくりのエキスパートとして知られる臼井は、今や複数のアスリートの義足製作・調整を手がける数少ない義肢装具士だ。その世界では超のつく有名人だが、初めからパラリンピックのような大きな競技大会を視野に入れていたわけではなかった。
「もう30年も前の話になりますけど、僕が義肢装具士になりたての頃、日々、足を失った患者さんと接する中で、義足になってからの彼らの人生に何か楽しみがあるといいなと考えるようになりました。そんなある日、義足で全力疾走する米国の女性アスリートの映像を見る機会があって、『これだ!』と思ったのです。当時の日本では、体に障害を負ったら一生静かに暮らすものだというのが常識で、義足で走るなんてもってのほかでした。でも、誰もができないと諦めていることができれば、足をなくした人の喪失感や不安を軽くできるのではないか。そう僕は考えました」
 常識や偏見にとらわれず、1989年から独学で競技用義足を作り始めた臼井は、その3年後に義足ランナーのための陸上クラブ「ヘルスエンジェルス」を創設。そこで走る喜びを知った人々は皆一様に自信をつけ、前向きに生きるきっかけをつかむ。最初はわずか4人だったメンバーも、今では70人近くに増え、子どもから大人まで、さまざまな障害レベルの人たちが汗を流す。「走ってみたい人なら、誰でも大歓迎」と臼井。初めて義足で走った人の中には感激のあまり涙する者もいるという。

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最終更新:9/5(月) 18:10

カンパラプレス

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