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[寄稿]からす

ハンギョレ新聞 9/5(月) 17:25配信

 去る8月6日、長野県松本市の神宮寺(じんぐうじ)というお寺に出かけた。この寺で韓国の写真家・鄭周河氏の作品展「奪われた野にも春は来るか」が開催されていて、この日に私と高橋哲哉教授とのトークが行われたからである。

 この日はヒロシマへの原爆投下から71年目にあたり、神宮寺では恒例の「原爆忌」が行われた。広い本堂に、丸木位里(まるき・いり)・俊(とし)夫妻の大作『原爆の図』シリーズ中「からす」【図】と『沖縄戦の図』が展示された。高橋卓志(たかはし・たくし)住職は「からす」の展示された本堂での講話で、被害のみでなく加害の記憶をも語り続け保ち続けることの大切さを説いた。聴衆は「原爆の図」と、フクシマ原発事故の教訓を問いかける鄭周河氏の写真作品を、同じ場所で同時に見るという貴重な経験をしたことになる。

 「からす」には、次のような「説明文」が付されている。

≪『原爆がおちゃけたあと(落ちた後)、一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。
日本人はたくさん生き残ったが、朝鮮人はちっとしか生き残らんぢゃったけん。
どがんもこがんもできん(どうにもこうにもできない)。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。
朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』(石牟礼道子さんの文章より)
屍にまで差別を受けた韓国・朝鮮人。屍にまで差別した日本人。
共に原爆を受けたアジア人。美しいチョゴリ、チマが。
飛んで行く朝鮮、ふるさとの空へ。からす完成、謹んでこれを捧げます。合掌。≫

 丸木位里は日本画家、妻の俊は洋画家である。広島は位里の故郷である。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。当時東京に住んでいた位里は原爆投下から3日後に広島に入り、俊も1週間後に合流して、ふたりで救護活動に携わった。それから5年後の1950年、『原爆の図 第1部 幽霊』が発表された。その後、「原爆の図」シリーズは1982年までの32年間描き続けられ15部を数えた。1972年の「からす」はその第14部である。

 反核平和運動との結びつきの中、「原爆の図」は1953年から10年間、中国、ヨーロッパ諸国、ソ連などで巡回展示された。しかし、この間に世界情勢の変遷にともなって日ソ両共産党が対立し、中ソ対立も始まって、反核平和運動も大きな混乱にみまわれることになる。日本の運動も分裂し、戦後初期からの共産党員だった丸木夫妻も党を除名された。

1965年からベトナム戦争が本格化する状況の中で、「原爆の図」は1970年からアメリカ各地で巡回展示された。この巡回で、丸木夫妻は「たとえば中国人の絵描きが『南京の大虐殺』という絵を描いて日本に持っていったら、あなたはどうするか」と問われるなど、各地で観客の厳しい反応に遭遇した。この経験は、他者のまなざしにさらされた丸木夫妻が、日米関係だけでなく、日本とアジア諸民族との関係という複眼的な戦争認識を獲得することに繋がり、20世紀の歴史の中で「原爆」をとらえ返す契機になった(小沢節子こざわ・せつこ『「原爆の図」描かれた<記憶>、語られた<絵画>』)。

この経験から丸木夫妻は第13部「米兵捕虜の死」(1971)と第14部「からす」(1972)を描いた。日本の反核平和運動体「原水禁」が初めて朝鮮人被爆者問題を日本の戦争責任と結びつけて取り上げ、「被害者の運動」から「再び加害者にならない運動」への転換を宣言したのも1972年のことだ。このような視点による丸木夫妻の共同制作はその後、南京、アウシュヴィッツ、水俣、沖縄等へと続いた。

 制作にあたって俊はカラスを観察して、このように述べたという。「どことなく稚気のある鳥なのです。稚気のあるカラスが群れて屍を食む。そのことが、よりいっそう空恐ろしく不気味なのではないでしょうか。」この言葉を小沢節子は、(丸木夫妻はカラスの姿に)「差別と抑圧を心の内奥に抱え込んだ庶民の姿を、そしてその一員としての自分たちの姿をも見たのではないだろうか」と読み解いている。

 フクシマ原発事故の直後、私はこれが日本の再ファシズム化の転機になるだろうという見通しを述べた。奇しくも安倍晋三首相は「日本を取り戻す」というスローガンで選挙に勝利し、政権に復帰した。日本のファシズム化という危機は、ここ数年、あきらかに表面化してきた。この間に日本では、集団的自衛権容認へと憲法解釈をかえる法制が強行され、戦後政治の大転換が進んだ。日本のいわゆる「平和憲法」は、すでに以前から真の平和憲法ではない。それは米国から核の傘を提供され、自衛隊という名の世界有数の軍事力を備え、明治初期に植民地化した沖縄に基地負担の大半を押し付けた上で成立している虚構の「平和憲法」である。しかし、日本の「平和憲法」は、日本人自身が勝ち取ったものというより、中国、朝鮮、アジア諸民族の頑強な抵抗と膨大な犠牲によって収穫された果実でもある。軍備と交戦権を禁じる「平和憲法」は日本国民だけの独占物ではなく、アジアの被害者たちのものでもある。被害者の同意なしに解釈変更や改定をしてはならないはずだ。

 1945年の敗戦と2011年の「フクシマ」は基本的に連続している。両者のわかりやすい共通点は、他者に対する謝罪がないということだ。日本敗戦時には、戦争によって被害を与えた相手に対して「申し訳なかった」という思いから再出発すべきであったが、それはなかった。「フクシマ」も同じだ。原子力発電所は国策によって推進され、東京電力のような大企業と、いわゆる「原発ムラ」が自己の利潤を目的に推進してきた結果、事故により大きな被害を自国民と他者に与えた。地球環境と未来の人類にまで、回復できないほどの被害を与えたのだ。だが、それについて詫びるという発想が少しも見られない。

 日本国の為政者は「唯一の被爆国として」という決まり文句を繰り返す。国民の多数も同じ決まり文句を唱える。それだけで自分たちは平和の側にいると思い込んでいる。しかし、同時にアメリカの「核の傘」の下にあるということを日本国民の多数が支持している。場合によっては他者の頭上に核兵器が降り注ぎ、ヒロシマ・ナガサキ以上の惨禍をもたらすことも承認しているのだ。オバマ大統領が核兵器先制不使用を宣言すること検討していると知ると、日本政府はそれに反対の意向を示したと伝えられる。国連核軍縮作業部会は8月19日、核兵器禁止条約の締結に向けた交渉を2017年の国連総会で開始するよう勧告する報告書を賛成多数で採択した。しかし、「唯一の被爆国」を自任する日本は棄権した。(ちなみに、韓国は反対)

 2016年7月31日に実施された東京都知事選挙では、核武装論者として知られる元防衛大臣の小池百合子が当選した。この知事選では「朝鮮人を追い出せ」と公然とヘイトスピーチを繰り広げたレイシストが立候補し11万票余りを獲得した。11万票という数字は、東京都在住の在日朝鮮人人口(韓国籍を含む)よりも多い。彼らの好む虚偽の主張は在日朝鮮人の大半は戦後来日した不法在住者であるというものだ。丸木夫妻が「カラス」に描いた朝鮮人被爆者たちは、不法在住者だったとでもいうのだろうか?

 丸木夫妻が私財を投じて建てた美術館の庭に「痛恨の碑」がある。1923年の関東大震災後、6000人ともいわれる朝鮮人が日本の一般民衆と軍警によって虐殺された。丸木美術館のある地域でも、虐殺があった。そのことを決して忘れまいという意志で、地域住民の反発をおして丸木夫妻がこの碑を建てたのである。日本国民の中に丸木夫妻のような人たちがいることを、私は忘れたくない。その意志を受け止め、毎夏「原爆の図」を展示してきた高橋住職のような人々や、その講話に真剣に聴き入る市民がいることも知っている。だが、残念ながらその数は年々減少している。71年前の戦争の記憶が薄れているだけではない、つい先日と言えるほど近い過去にあったフクシマ原発事故についてすら、罪深い忘却の気配は色濃い。「時間の経過というものは、いつでも加害者の味方だ」、私は「原爆忌」当日のトークでそう述べた。

 「権力に対する戦いは忘却に対する記憶の戦いだ」(ミラン・クンデラ)とすれば、(少なくとも日本社会では)人々はこの戦いに一貫して敗北してきたというほかない。忘却どころか、むしろ、記憶の基礎となる言語とその概念自体が内側から腐るように崩れている。「平和」の名のもとに戦争準備を進め、「唯一の被爆国」として核先制攻撃を支持する、といったたぐいの事態である。「平和を守れ」「人間を守れ」というために、まず「言葉を守れ」と訴えなければならない。それが日本社会の現実である。韓国ではどうであろうか?

徐京植(ソギョンシク)東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:9/5(月) 17:25

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