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【沖縄・高江ルポ】 ハンセン病 隔離の島 「隠す体質、許せない」

カナロコ by 神奈川新聞 9/7(水) 21:23配信

 頭上の太陽がアスファルトを照り付けてきた。県道110号線を車で進む。両側には、青々としたサトウキビ畑が広がっていた。

【動画】沖縄愛楽園 ハンセン病 隔離の島

 「サトウキビって強そうに見えて弱いんです。台風が来ると一気にやられちゃう。一生懸命育てた作物が一晩で使い物にならないときもあるんだ。農家はつらいですよ」

 土木技術者の男性(50)のほおを南風がなでる。男性は沖縄県北部の自然豊かな大宜味村で、両親が建てた家に1人で住む。

 8月21日の午後。男性とともに、屋我地(やがじ)島へ向かっていた。島は那覇市から車で約2時間の距離にある。白い砂浜に遠浅の海。いま、観光リゾート地として知られる。

 男性とは2日前、大宜味村の隣、東村高江で出会った。高江では、米軍ヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)建設に反対する抗議集会が開かれていた。米軍北部訓練場メインゲート前で座り込む市民たち。その最前列に、建設作業服姿の男性はいた。

 屋我地島へ向かう車の中で、男性は言う。

 「屋我地島がどんな場所だったか。本土から来た人は知らないでしょう」。途中で、観光客の車はほとんどが左折していく。

 「真っすぐ進むと、行き先は決まっていますから」。観光客の車列とは違う道を進んでいく。左に折れ、別の県道に入ったところに、その標識はあった。

 「国立療養所沖縄愛楽園」

 標識の奥に茶色の建物が見えた。

 かつて、ハンセン病患者の隔離施設だった。


「隠す体質、許せない」

 屋我地島は五つの集落からなる。周囲約16キロ。戦前は離島だった。1938年、この地に「沖縄愛楽園」の前身となる「国頭愛楽園」が開設された。

 男性の両親はハンセン病の患者だった。その話を聞いたのは、2日前の高江。親戚への影響を案じ匿名ならば、と取材に応じてくれた。

 男性は東京や沖縄の建設会社で約20年間、働いていた。米軍基地「キャンプ・ハンセン」内の工事で現場責任者を務めたこともある。いまは独立し、竣工(しゅんこう)図面を書く仕事を請け負う。

■父の手指、母の脚
 奄美大島で生まれたという。ハンセン病の両親が出会った場所だ。両親は島の国立療養所「奄美和光園」に入所中、男性を授かった。ハンセン病患者が出産することは許されない時代。妊娠すると堕胎を強制された。

 「本来であれば、自分は生まれてこなかった。和光園の園長が両親に『生みなさい』と言ってくれたようです」

 その話も、後にハンセン病患者の証言集などで分かったという。自らの出生について、両親から聞いたことは一度もない。

 父の手指は曲がっていた。母は脚が曲がっていた。両親は病気について何も言わなかった。「父ちゃんも母ちゃんも、自分も妹も何も言わなかった。ハンセン病とうすうす気付いていましたが、口にしてはいけないような雰囲気がありましたから」

 2000年。東京から沖縄に戻り、建設会社での仕事も軌道に乗ってきたころ、両親は男性に告げた。「再入園する」と。行き先は「沖縄愛楽園」。両親は70歳目前だった。

 ■人を人と思わない
 愛楽園の歴史を知る重要な施設が、今も園内にある。「交流会館」と名付けられた資料館だ。入り口付近の壁に張り紙があった。白い用紙に黒い文字がつづられている。

 「らい予防法」に対しての
腹の底から湧き上がってくる
怒りというものがあります
「らい予防法」があって
私たちハンセン病療養所に隔離されたものが
どういう思いで
どういう状況で生きてきたのかということを
まずは話したいんです

 ハンセン病は「らい菌」に感染することで発症する。日本政府は1907年からハンセン病の隔離政策を始め、31年には、全患者の終生隔離を定める「癩(らい)予防法」を制定した。隔離政策は96年まで90年間も続いた。

 資料館の一角で、男性が足を止めた。目の前に新聞記事がある。40年9月9日の「沖縄日報」で、「三國辱病の撲滅へ 厚生省積極的に活動」という見出しが見えた。展示の下に説明書きがある。

 〈ハンセン病は「国辱病」 日中戦争勃発の翌年1938年(昭和13年)に設置された厚生省は、戦争遂行のために「健民健兵」政策をより一層推進した。国民の結核対策や体力向上に力を入れ、“強い兵隊”の確保につとめたのである。一方、ハンセン病をはじめ近視や花柳病は兵力を弱体化させる「国辱病」なので、「撲滅、駆除」すべきとした〉
 男性は言う。「人を人とも思わないとはまさにこのことです」

 さらに資料館を進み、男性が再び足を止めた。備え付けのテレビ画面。〈米軍が記録した愛楽園 9分44秒〉を上映するという。映像が始まると、真っ黒い画面にテロップが流れた。

 〈これは米軍が1945年7月の愛楽園を記録した映像を編集したものである。同じ時期、沖縄島南部ではまだ戦闘が続いている地域もあった。米軍は、愛楽園にたびたび訪れ敗戦から間もない園内の様子を撮影した。米軍が撮影した愛楽園の映像がどのように利用されたかは不明である〉
 映像は、患者の「解剖」も映し出した。

 〈解剖 1945年7月7日撮影 ハンセン病療養所の医師たちは入所者が死亡すると遺体を解剖していた。それは遅くとも1920年頃には始まり、1980年頃まで続いたと考えられる。「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」2005年より〉
 モノクロ映像の中で、マスク姿の園長と看護師が動く。園長の手には外科手術用の小刀。その眼前に遺体が横たわっていた。

 テロップは続く。

 〈死亡した入所者は真夏の太陽の下 早田園長らによって解剖された 「患者は研究材料だったな」と証言する入所者もいる 解剖の目的や詳細については明らかにされていない〉
 
 ■深刻な人生被害
 2001年、熊本地裁はハンセン病隔離政策が日本国憲法に違反していたとの判決を下した。隔離と差別は取り返すことのできない、極めて深刻な「人生被害」を与えた、と。裁判には沖縄愛楽園の入所者も原告として名を連ね、当時の経緯を説明した資料が展示されていた。

 〈国立療養所で暮らしながら国を訴えるハードルは非常に高く、原告はなかなか増えませんでした。(中略)しかし、裁判で強制収容を否定し、断種堕胎の事実を隠す国の主張が明らかになるにつれ、このまま放置できないと提訴希望者が増えていきました〉
 男性は言う。

 「自分が一番許せないのは、この部分。事実を隠す政府の体質です。あるものをないかのように扱う。あるものをないかのように装う。ハンセン病の問題も、米軍ヘリパッド基地建設の問題も同じだと思います」

 8月19日に東村高江で行われた抗議集会。県民ら約500人が集まった。それがどれほど本土に伝わったか。

 静かな資料館で男性の語気が強まった。

 「いま、高江で何が起きているか知っていますか。政府が沖縄県民に対して、何をしているのか知っていますか。本土の人は、見て見ぬふりをしていませんか」

(続く)
 
 ◆米軍北部訓練場 国内最大規模の米軍専用施設。大半が森林で、米海兵隊が訓練に使用している。日米両政府は1996年、訓練場の総面積約7800ヘクタールのうち約4千ヘクタールの返還で合意。この際、返還区域にあるヘリパッドを、返還後も残る訓練場内に移設することを条件とした。2006年に6カ所の新設計画が決まり、日本政府は07年に着工、14年までに2カ所が完成。東村・高江の集落を取り囲むような計画となっており、住民らは危険性を訴え、反対している。

最終更新:9/7(水) 21:23

カナロコ by 神奈川新聞