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「日本橋の魚河岸」が育てた、食だけじゃない江戸の文化とは?

TOKYO FM+ 9/8(木) 12:00配信

ご存知のとおり、江戸時代には魚河岸は築地ではなく、東京の日本橋にありました。日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、現在の日本橋本町1丁目から日本橋室町1丁目に魚市場があったのです。江戸の繁栄の象徴だった魚河岸が生み出したのは、どうやら食文化だけではないようです。

日本の台所として栄えてきた築地市場。
江戸時代には日本橋にあった魚河岸ですが、大正にあった関東大震災を機に現在の築地へと移転しました。
それまでの間、300年以上も魚河岸は江戸の人々の食生活を支え続けたのです。

ですが、実は支えていたのは食生活だけではありません。
魚河岸は「文化」を支えている場所でもありました。
「一日千両」という言葉があり、これは一日に千両も稼ぐ所という意味ですが、江戸にはその場所が3つありました。
朝千両と呼ばれるのが魚河岸。昼千両が芝居、つまり歌舞伎。そして夜千両が吉原です。
それだけ、お金が動き儲かるのですから、魚河岸の有力問屋は、それはそれは豊富な資金を持っていました。

こうした資金を用いて、魚河岸は多くの文化のスポンサーになることがありました。
歌舞伎役者や力士、浮世絵画家……。
中でも有名なのが、あの松尾芭蕉のスポンサーであったと言われる杉山杉風という人物です。

杉山杉風は江戸幕府出入りの魚問屋に生まれました。
父親が自らの魚問屋に芭蕉を招き入れ住まわせたことがきっかけで出会ったふたり。
杉風はその才能を信じて、自らが問屋の主人になったあとも経済的援助をし続けました。
自分自身も俳句を嗜んだ杉風は、芭蕉の弟子として学びながら彼のスポンサーも務めたのです。
杉風の人柄はとても温厚で、芭蕉が最も心を許す人物だったとか。
まさに、杉風なしでは松尾芭蕉はこの世に出ていなかったのですね。

魚だけじゃなく、日本の文化も支えてきた日本橋の魚河岸。
築地に移動の話が出たときは、多くの人の反対があり実際の移転まで10年以上の月日がかかったそうです。

日本の台所であり、文化の発信地。
場所が変わっても、魚河岸ソウルだけはきっと変わらないはずです。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」2016年9月7日放送より)

文/岡本清香

最終更新:9/8(木) 12:00

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