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リオ超人烈伝「転機となった一本の電話」 ~車椅子バスケットボール・豊島英~

カンパラプレス 9月8日(木)14時0分配信

 4年前、目標としていたパラリンピック出場を叶えた豊島英。だが、それは悔しい思い出となっている。チームは前回大会であげた過去最高位の7位を上回る「ベスト4」を掲げていたものの、結果は9位。決勝トーナメント進出さえもできずに終わった。
「自分はこのままで絶対に終わらない」
 最後の試合を終えた日、豊島の気持ちは早くも次へと向かっていた。

すべてはパラリンピック出場のために

 4年前はまだ、控えの存在で、ベンチにいることの方が多かった豊島だが、今は違う。主力の一人として、チームにはなくてはならない存在となっている。そんな豊島にとって、自らの競技人生を語るうえで、欠かすことのできない人物がいる。チームメイトであり、同じ日本代表としてリオに出場する藤井新悟だ。

 豊島は、中学生の時に通っていた養護学校(現特別支援学校)の体育教師のすすめで車椅子バスケを始めた。その時から目標としていたのが、パラリンピックだった。

「チームには女子の日本代表として活躍している選手がいたこともあって、自然と『自分もいつかはパラリンピックに出場したい』という気持ちが湧いてきました。とはいえ、当時は目標というよりも、漠然とした夢でしかなかったですね」

 転機が訪れたのは、2008年、豊島が20歳の時だった。ある日、彼の元に1本の電話がかかってきた。それは、当時の豊島にとっては雲の上の存在だった、藤井からのものだった。

「同じガードということもあり、僕は以前から藤井さんに憧れていました。その年、藤井さんはキャプテンとして北京パラリンピックに出場し、過去最高の7位という結果を出していた。すごいなぁと思いながら見ていました」

 当時、福島県のチームに所属していた豊島だったが、時には宮城県にまで足を延ばし、藤井が所属する宮城マックスの練習に参加することもあった。間近で見る藤井はまさにスーパースター。「自分もあんなふうになりたい」とレベルアップする方法を模索していた。

 その一つとして、豊島は当時既に日本選手権で優勝し、日本王者となっていた宮城マックスへの移籍を考え始めていた。厳しい環境に身を置くことで、自らを鍛えたいと考えたのだ。藤井からの電話は、そんな矢先のことだった。

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最終更新:9月11日(日)12時50分

カンパラプレス