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[特派員コラム]虐殺の記憶

ハンギョレ新聞 9月9日(金)20時31分配信

 日本に赴任したのが2013年9月だから、東京での生活もそろそろ3年になる。東京で暮らし始めた頃は、週末になれば、自宅周辺に何があるのかが気になって、かなり長い散歩に出かけた。自宅を出て5分ほど歩けば、東京の漢江(ハンガン)と呼ばれる隅田川が流れ、川を渡ってさらに歩くと日本の相撲の揺籃である「両国国技館」が見える。そこから北に進むと有名観光地の浅草が、西に行けば「オタクの天国」秋葉原に出る。2013年12月に中央区立図書館に会員登録した時は、地域共同体の一員になった気がして、胸が一杯になった。

 私が自宅周辺の方向感覚を掴んでからは、地下鉄路線や地名に敏感になった。今は自宅から代々木公園や郊外の自由が丘に行くためには、どの地下鉄路線に乗ってどこで乗り換えれば良いか、路線図を書けるほどだ。その中でも最も重要なのは空港の位置だ。「東京の玄関」と呼ばれる成田空港に行くには、自宅から最寄り駅の日本橋駅で成田空港行きの電車に乗ればよい。そしてしばらくしてから、成田空港と都心を結ぶ京成線に「八広」(京成押上線)という小さな駅があることに気づいた。

 今月1日は日本で関東大震災が起きてから93年になる日だった。1923年9月1日に発生した大地震で、日本の関東一帯で10万人を超える人が犠牲になった。日本人は9月1日を「防災の日」として記念しているが、関東地域の在日にとっては、この日は朝鮮人虐殺の追慕日だ。今年も1日から週末の4日まで関東各地で様々な追悼・慰霊祭が開かれた。

 今月3日、八広駅に隣接した東京の荒川のほとりで「ほうせんか」(鳳仙花)という日本の市民グループが主導する35回目の韓国・朝鮮人犠牲者追悼式が行われた。この追悼式が30年以上続いているのは、絹田幸恵(2008年死亡)という小学校教師のおかげだ。東京都足立区で教師として勤務していた彼女は、生徒と共に荒川放水路の歴史を調べているうちに、地域のお年寄りたちから関東大震災の時に川の堤防の下で多くの朝鮮人が虐殺されたという話を聞いた。浅岡重蔵さんは具体的に「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺した」と証言した。

 この話を聞いた絹田さんらは1982年、「ほうせんか」という団体を作って、お年寄りたちが証言した虐殺現場で遺体発掘調査を進めた。残念ながら遺骨の発掘には失敗したが、会は毎年堤防下で追悼式を行っている。2009年9月には虐殺現場付近に小さな土地を購入し、「悼」という字を刻んだ追悼碑も建てた。今年の追悼式には在日歌手のパク・ボさんと日本の農楽団が参加した。日本人が6千人を超える朝鮮人を虐殺した理由については、義兵戦争や三一運動当時に行われた虐殺の経験との関連性を指摘する研究もある。

 考えてみると、朝鮮人虐殺と関連する東京の旧地名は、皆自宅からあまり離れていなかった。妊娠した済州出身の朝鮮人女性が警察署内で日本刀で刺されて死んだとされる亀戸や、4万人以上が火災の熱風に巻き込まれて死亡したとされる横網町公園、数十~数百人が機関銃で殺害された四ツ木橋、そしてその外郭の船橋、習志野。複雑多様な血と虐殺の歴史を知ってからは、普段通っていた地名や路地はもはやいつもの風景ではなくなり、様々なことが頭をよぎる。

 韓日政府が言う「未来志向」とは、結局何だろう。それは結局、被害者の「忘却」を前提にしたもので、真っ当な人間が受け入れられる言葉ではない。

キル・ユンヒョン東京特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:9月9日(金)20時31分

ハンギョレ新聞