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記憶つなぐ 母の回顧録「宝物」 南砺の山田さん

北日本新聞 9月11日(日)0時45分配信

 南砺市山見(井波)の山田濶子(ひろこ)さん(82)は、亡き母が旧満州(現中国東北部)から富山に引き揚げるまでを克明に記録した回顧録を大切にしている。夫の出征、幼い子どもたちを女手一つで育てた苦労、そして迎えた終戦とソ連軍の侵攻、逃避行…。引き揚げ時の過酷な状況や惨めな思いが文章から切々と伝わってくる。全てを乗り越えて激動の時代を歩んだ母を思い、山田さんは「生きるために一生懸命だった」と感慨深い。

 山田さんの母、氏家(うじいえ)美寿子さん(享年79)の回顧録は、2冊のノートに書いた文章を自費出版したものだ。

 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、山田さんらきょうだい4人と母は、父の俊明さん(享年86)が「満州国」で役人をしていたため富山を離れる。一家は新京(現長春)の住宅街で暮らし始めた。

 山田さんは当時小学生で「満州が外国だという感覚はなかった」。日本人の学校に通い、話すのも日本語。れんが造りの家には暖炉の一種「ペチカ」があり、前庭にはライラックの花が揺れていた。42年に弟が生まれ、戦時であっても穏やかな日常だった。


 統制があっても、食べることにさほど困ることなく暮らしている。


 44年2月、俊明さんが出征した。召集を避けたい思いもあって満州に渡っただけに、美寿子さんの落胆は大きかった。母子6人の暮らしを支え、夫の帰りを待ちわびながら畑作りに精を出した。


 砂糖不足のために砂糖大根を作り、豆類の甘味の役を補う。野菜作りが、家のためにもなり、心の支えにもなった年であった。


 終戦直前の45年7月、日本人が多く住む奉天(現瀋陽)に米軍のB29爆撃機が現れた。約400キロ離れた新京の人々にも動揺が走り、急きょ現在の北朝鮮の地域に疎開した。食事は現地の人たちが、おにぎりなどを振る舞ってくれたという。


 終戦の陛下のラジオ放送を聞く。空気は一変する。


 ソ連軍が侵攻し、現地の人たちは炊き出しに来なくなり、子どもたちは飢えた。至る所で「朝鮮万歳」「ソ連歓迎」と書かれているのを見掛けるようになった。

 疎開先から新京の家に戻ると、ソ連兵による略奪で家族の衣類はほとんどなくなっていた。兵士はたびたび家の中を物色しては、品物を持ち出していった。「お気に入りの置き時計を取られてね…」と山田さん。翌年には国民政府と共産党との戦いや小競り合いが繰り広げられるようになった。間近でパンパンという発砲音とともに弾が飛び交う。弾が窓際にあった行李(こうり)を貫通し、恐ろしかった。

 ようやく引き揚げを迎えたのは46年7月。財産を失い、夫の安否も分からず、子どもたちを連れて列車に乗る。だが、女性や子どもばかりの列車は停車するたびに狙われ、男たちが乗り込んできては物品を奪い取っていった。


 抵抗出来ない状態(中略)ただ帰ることのみ念願して我慢している…


 航路と汽車で富山へと向かい、8月1日、福野駅で降りた。その後の暮らしを思えば暗い気持ちになり、「みじめだ」ともつづるが、子ども5人を無事連れてきたのが何よりだったと吐露している。

 回顧録は引き揚げ体験を記録した貴重な資料であり、家族を守り続けた母の思いの詰まった「宝物」でもある。次代に伝えたいと願う山田さんは「あの戦争で、母も私たちも嫌な思いをたくさんした。二度と繰り返してはいけない」と力を込める。 (社会部・柳田伍絵)

北日本新聞社

最終更新:9月11日(日)0時45分

北日本新聞